【嵐の中で見出す信仰】240630礼拝メッセージ
「嵐の中で見出す信仰」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 08章 25節
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
今日のテーマは信仰者です。
信仰者。
皆さんはジェットコースターが好きでしょうか。
実は私はジェットコースターが大の苦手です。
特に急にフワっと落ちていくあの感じが苦手です。
かたやうちの妻はジェットコースターが大好きです。
こちらに引っ越して来て初めてナガシマスパーランドの横の高速道路を通った時、目を輝かせて「あそこに行きたい」と言いましたが、私は断固拒否し続けて今に至っています(笑)
ある人がこんなエピソードを教えてくれました。
その人には6歳の子どもがいて、一緒に遊園地でジェットコースターに乗ったそうです。
カタカタカタカタと、高いところまで登ったらそのあとは急降下し、右へ左へ、上へ下へと、激しくアップダウンとジグザグを繰り返しながら、揺れに揺れて子どもがギャーギャー叫んでいました。
その間父親も内心ビクビクしながらも、ギュウっと隣で子どもの手を握っていました。
無事終わり、子どもに感想を聞きました。
「どうだったジェットコースター?怖かった?」
すると子どもは言いました。
「怖かったけど大丈夫。だってパパが隣にいたから」
私たち信仰者の歩み方も似たようなものがあると思うのです。
人生を歩んでいれば、急に右に行ったり左に行ったりなど進路変更を余儀なくされ、また調子が良いなと上向きに進んでいるなと思えば、急に下がってどん底になってしまうことを体験することがあります。
その時は怖い思いをし、叫ぶかもしれません。
しかし、ジェットコースターに乗った子どもにとって隣に父親が一緒にいたことが支えになったように、私たちも人生において右に左に、上に下に振り回されることがあっても、私たちの隣にはキリストが共におられる。
この事実が私たちを根底から支えてくれるのではないでしょうか。
本日は信仰者をテーマに3つのポイントでみていきたいと思います。
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1つ目のポイントは、信仰者とは、御言葉を聞いて行う者、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 08章 19節
さて、イエスのところに母ときょうだいたちが来たが、群衆のために近づくことができなかった。
20:ルカによる福音書/ 08章 20節
そこでイエスに、「お母様とごきょうだいたちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった。
キリストが多くの群衆に神のことを語られた時、キリストの母と兄弟たちがやってきました。
母とは、マリアのことです。
そして兄弟というのは、母マリアと父ヨセフの実の子であり、キリストにとって弟、妹の存在です。
この家族達が、キリストに会いに来たと。
しかし多くの群衆たちがキリストの周りを取り囲んでいたので、近づくことができませんでした。
そこで家族が、「私たちはキリストの家族だ、会わせて欲しい」と言い、おそらくそれが伝言ゲームのように伝わっていったのでしょう。
しかしそれをキリストが耳にした時、キリストは言いました。
ルカによる福音書/ 08章 21節
するとイエスは、「私の母、私のきょうだいとは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった。
キリストは、この時、本当の家族とは何かを教えられました。
キリストにとって本当の家族とは、神の子であるご自分の言葉を聞いて行う人たちが真の家族である。
そしてそれは血縁関係を超えるものであると。
日本では、会社や伝統芸能などが、家族、親族関係で運営をすることが多かったりします。
世襲制というもので、親子など家族で組織を作っていくことを重んじる。
それは血縁関係を大事にし、一族を守ろうとする意識があるからです。
私たちも、友人を大切にはしますが、やはり親や兄弟、自分の子どもというのは何かあれば優先して動くものです。
それは自分の血が繋がっているからです。
このように、血のつながりというのは、私たちの人間関係を強く結ぶものであります。
しかしキリストは、血のつながりも大切であるが、それ以上に大切なのは、キリストの言葉に従っていく、神の家族であると。
なぜなら、神の家族というのは、死んでもなお永遠に続くものだからです。
たとえどんなに血の繋がりがあっても、死が訪れた時には関係が断たれてしまいます。
どんなに仲のいい家族であったとしても、死は容赦無く私たちの関係を断ち切ってしまいます。。
しかしキリストの御言葉によって救われた者は、たとえ血の繋がりがなかったとしても、死んでもやがて甦り、関係は切れずにとこしえに一緒に生きる者となる。
だからキリストは、御言葉によって救われ従っていく信仰者達は、血縁関係を超える神の家族、兄弟姉妹であると言われたのです。
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ではその信仰者の歩みとは一体どのようなものでしょうか。
2つ目のポイントは、信仰者は、嵐に会うことがある、ということです。
聖書は言います。
ルカによる福音書/ 08章 22節
ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸へ渡ろう」と言われたので、船出した。
23:ルカによる福音書/ 08章 23節
渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、弟子たちは水をかぶり、危なくなった。
24:ルカによる福音書/ 08章 24節
それで、近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、このままでは死んでしまいます」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。
ある日、キリストは弟子たちと一緒に船に乗り、湖、、、これはガリラヤ湖のことです、「この向こう岸に渡ろう」と言われました。
そして弟子達はキリストの言葉に聞き従い、舟を出しました。
弟子たちの中には漁師たちがいましたから、キリストは舟の運行を彼らに任せていました。
途中キリストは、舟に揺られて眠ってしまいました。
キリストはこれまで、来る日も来る日も非常に多くの群衆を相手にメッセージをしたり、たくさんの癒しなどをして疲れ果てていたことでしょう。
だからキリストは船の中で眠られました。
しかし、しばらくすると突風が湖に吹き下ろして来て、弟子たちは水をかぶりはじめ、命が危なくなりました。
嵐になり、ベテラン漁師たちの力をもってしても、舟が沈みそうになりました。
ガリラヤ湖というのは、横から見るとすり鉢上の湖であり、山から風が吹き込むと、湖は大荒れになることがあります。
今までは晴れていたかと思うと、急に雲が厚くなり雨が降り出し、風が強く吹き荒れるような状態になることがあります。
ベテラン漁師たちはそのことを十分知っていました。
彼らは長年そのような状況を何度も何度も経験した人たちです。
しかし今回の嵐は想定以上であり、ついに舟に水がたまりだし、このまま行くと舟が沈んで自分達が死んでしまうと恐れました。
舟がグワングワンと大きく揺れ、波がバシャバシャ舟に入ってくる。
その水をみんなで必死にかき出していく。
しかしそのような非常事態の中でも、キリストはなぜか眠っておられました。
最初弟子たちは、ひどく疲れているキリストをできるだけゆっくり寝かせてあげようと思っていたことでしょう。
だからできる限り自分たちの力でこの嵐に対抗しようとした。
しかし舟が大きく揺れて水が容赦なく入ってくる中で、このままだと舟が沈没すると思い、寝ているキリストに「先生、先生、溺れそうです、死んでしまいそうです」と言って起こしたのです。
もし私が弟子達と同じ立場だったら似たようなことを叫ぶと思います。
「主よ、なぜあなたは寝ていて何もして下さらないのですか?
助けて下さらないのですか?
今私たちは困っているんです、溺れかけ死にそうなんですよ。」と。
このように、嵐によって大きく揺れる中で、何もして下さらない、眠っているように思えるキリストに対して叫びたくなる。
私にとって、自分の人生の中で大きな嵐に会い、大きく動揺したのは、大学生3年生の時でした。
家族で唯一のクリスチャンであった母が急に倒れた時です。
検査で肺に何か陰のようなものがある、と分かり、後日精密検査をしました。
その結果分かったのは、肺ガンステージ4でした。
肺全体にガンが広がっていたため手術は不可能。
余命がもうあまりない状態でした。
今までいて当たり前だった母の命が消えかかっている、、、その現実を知って、私は大きく動揺しました。揺らされたのです。
人はいつか死ぬ、、、、頭では分かっていたつもりです。
親族の葬儀にも出たこともありました。
しかし一番身近な人の命がもう少ないことを通して、改めて知りました。
人はいつか必ず死ぬと。
母は真面目なクリスチャンでした。
もちろん完璧ではありません。
でも、子どもの私から見ても母の普段の日常生活は精一杯、御言葉に従って歩んでいるように見えました。
しかし、たとえ御言葉に聞き従う神の家族、信仰者であってもガンという命を脅かす嵐は襲ってくる。
ガンの発見は遅かったのですができる限りの治療はやりました。
保険外の治療もやった。
しかし効果はあまりありませんでした。
どんなに祈り、治療を尽くしましたが、病気は一向に回復しない、、、私から見たらその時の状況は、まるでキリストが眠っていて、何もしてくれないように見えたのです。
その時私は思いました。
「主よ、なぜあなたは何もしてくださらないのですか、起き上がって助けてください」と。
今回の箇所でキリストが「湖の向こう岸に渡ろう」と言った時、もし弟子たちがその言葉に聞き従わず、自分勝手な判断で進んで行って、そこで嵐に会うならまだ納得できます。
それは御言葉に従っていないから、嵐に会うのだと。
しかし、弟子たちは「向こう岸に渡ろう」というキリストの言葉に聞き従って舟を出しました。
御言葉に聞き従った弟子達、、、彼らは神の家族です。信仰者です。
それでも、彼らの命を脅かす嵐に会った。
私たちは心のどこかで、御言葉に忠実に従い続けるなら、苦しみも困難もない、静かで快適な船旅が約束されている、と思うのではないでしょうか。
だから私は母がガンになった時、キリストに叫びました。なぜあなたは何もして下さらないのですか、眠っているのですかと。
しかし、今日の聖書箇所が示す通り、たとえ御言葉に聞き従う信仰者であっても、嵐に会うことはある。
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では私たちはどうしたらいいのでしょうか。
3つ目のポイントは、信仰者は、嵐ではなくキリストを恐れ敬う、ということです。
聖書は言います。
24節 イエスが起き上がって、風と荒波をお叱りになると、静まって凪になった。
25:ルカによる福音書/ 08章 25節
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
弟子たちが起こしたことによって、キリストは眠りから覚めました。
そして風と荒波をお叱りになりました。
すると今までの暴風が嘘のように静まって、穏やかな湖に戻りました。
キリストがただ言葉を発しただけで、嵐がおさまったのです。
そしてキリストは弟子たちに言います。
「あなたがたの信仰はどこにあるのか」
ここでキリストは弟子たちに、「あなた達は信仰が無い」と言ったわけではありません。
「どこにあるのか」と言うように、この嵐の中でどこかに吹き飛んでしまった彼らのキリストに対する信頼・信仰を問いました。
弟子達は今まで数々の奇跡などを通して、キリストが神の子であることを信じていました。
しかし嵐が来た時、すっかりそのことを忘れ、嵐に心が捉えられてしまっていた。
キリストより、今目の前の嵐、問題の方が恐ろしい、力が大きいと。
だからキリストはここで、言葉だけで嵐を静めることによって、弟子達が恐れている嵐をも従わせる力をご自身が持っていることを、ここで改めて弟子達に示されたのです。
よって弟子達は、嵐を静めたキリストを見た時こう言いました。
25節 弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
当時、風や水がある湖、海というのは、悪魔がいる場所として恐れられていました。
湖や海というのは荒れると、どんなに素晴らしい船であっても沈んでしまう、人間の力では到底制御できない悪魔がいる場所であると思われていたからです。
だから荒れ狂う風や水を従わせるというのは、悪魔を従わせる力を持った真の神しかできないと信じられていました。
そのため弟子たちは、言葉だけで嵐を静めたキリストこそ、真の神であることを改めて知ったのです。
確かに嵐は恐ろしい。しかしキリストはこの嵐をも治めるもっと恐ろしい力を持っているお方。
このお方が、今自分たちと一緒の舟に乗っていて下さる、、、そのことに彼らは気付いたのです。
そう、信仰者とは、嵐をもおさめる恐ろしい力を持っているキリストが私たちと共におられることを知る人のことです。
私の母が亡くなる少し前、病院で酸素マスクをしている状態の時でした。
苦しんでいる母に何かすることができないかな、と思い、母がいつも持っていた聖書を開き、好きな御言葉を読みました。
イザヤ書/ 40章 31節
しかし、主を待ち望む者は新たな力を得/鷲のように翼を広げて舞い上がる。/走っても弱ることがなく/歩いても疲れることはない。
この時、今まで苦しんでいた母がニコっと微笑みました。
病の大きな痛みがあるという嵐の中で御言葉が響く時、母の心に平安、静まりが生まれました。
それを見た時私は思いました。
「人はいつか死ぬ。
必ず死ぬ。
しかし聖書の言葉、御言葉は、生きる時も、死ぬ時も、心に慰めと平安を与えるものだ」と。
そして「人が死の淵を歩む時でさえ、人に慰めを与えることができるこの御言葉を、私は生涯を通して一人でも多くの人に伝えていきたい」、、、これが私が牧師になった原点の一つです。
私たちが人生を歩む時、様々な嵐に会い、揺らされることがあるでしょう。
病、経済的な問題、精神的な問題、家族、友人との関係の問題など。
たとえ忠実に御言葉に従っていったとしてもこれらに会うことがある。
その時私たちは恐れ、叫びます。
しかし私たち信仰者は、問題を恐れるのではない、神の子であるキリストを恐れ敬う。
キリストは、私たちの人生に襲ってくる数々の嵐をおさめ、、、いやそれだけではない、私たちにとって1番の敵であり、この地上で生きていく中で最後に訪れる最も大きい嵐、死をも、キリストは復活の力によって勝利して下さったお方。
このお方が、今や私たちの敵ではなく味方となって、一緒の舟に乗り今日も共におられる。
しばしば教会は舟にたとえられてきました。
教会という舟は歴史上、何度も何度も大きな嵐に会いました。
迫害され、揺らされ続けてきました。
しかしある人は言いました。
「この舟は、どんなに揺れることがあっても、沈むことは無い。」
たとえ死という嵐が来ても、決して沈まない。
なぜなら私たちが乗っているこの舟は、キリストが死から勝利した手によって下から支えて下さっているからです。
だからどんなに厳しい状況を通らされようと、私たちは沈むことはないのです。
このように、最大の嵐である死をも勝利された神の子キリストが、今や私たちと一緒の舟に乗り、勝利の手で支え続けて下さる、、、このことに信頼して歩んでいくのが私たち信仰者の姿です。
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結語
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 08章 25節
イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「一体、この方はどなたなのだろう。命じれば風も水も従うではないか」と互いに言った。
今日は信仰者をテーマに3つのポイントで見てきました。
1つ目、信仰者とは、御言葉に聞き従っていく者
2つ目、信仰者は、嵐に会うことがある
3つ目、信仰者は、嵐ではなく、キリストを恐れ敬う者
ということです。
キリストは今日も私たちに言われます。
「嵐が来て揺れると、すぐに動揺してしまう者たちよ。
万物を支配し、そして死をも支配している私があなた達と同じ舟に乗っているではないか。
私があなた達を支える。
この私を信頼して、今日も舟を漕いで行きなさい」と。
だから私たち教会は、どんな嵐が来ようとも、揺らされようとも、決して沈むことのない舟に乗っていることを信じ、今日もキリストと共に、舟の旅を続けていこうではありませんか。
祈ります。
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祈り
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天のお父様、私たちは人生の船旅で、問題が起きて揺れるとすぐに慌ててしまう者です。
そして何もしてくれないように見える、眠っているように見えるあなたに対して、「なんで何もしてくれないのですか」と叫び出す信仰の薄い者です。
しかしあなたは私たちにとって最大の嵐である死をも打ち勝ったお方です。
あなたと共にいる舟は揺れることがあっても、決して沈むことはありません。
死に打ち勝った御手によって私たちを下から支えてくださっているからです。
そのあなたが今日も私と同じ船に乗ってくださっている、、、この事実に目を向けながら、今日もあなたと一緒の人生の船旅をしていくことができますように導いて下さい。
イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。