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【キリストの変化】240825礼拝メッセージ

「キリストの変化」
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イントロ
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 29節
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。

今日のテーマは「変わる、変化」です。
同窓会などで久々にあった同級生が、学生時代にはあまり目立たなかった人が今は立派になっていたり、逆に学生時代はイケイケだった人が今はちょっと、、、など人が変わった姿を見ることがあります。
こうした変化は、その人の見た目や、体型、雰囲気などに現れます。

このような変化は霊的にも起こることがあります。
以前、母教会で当時の主任牧師がある信徒の人を見て「あ、変わったね」と言いました。
周りから見たら、その変化はあまりわかりませんでしたが、実はその信徒の方はプライベートで様々な問題が重なり大変だった時に、御言葉によって心開かれ、変えられていった後でした。
その変化を牧師は感じとりました。

私たちも、神と祈り交わる中で変化を経験します。
それは神と繋がることによって、内側から変えられていくからです。

今日の箇所はイエス・キリストご自身が変化された話です。
このことについて、3つのポイントで見ていきたいと思います。

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1つ目のポイントは、キリストの変化は、イエスが神の子であることを示す、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 28節
この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて、祈るために山に登られた。

「この話」というのは、キリストが弟子達に「あなた方は私のことを誰だと言うのか?」と尋ね、ペトロが代表して「あなたは神のメシアです」と信仰告白した時の話です。
この出来事から8日ほど後、キリストは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて祈るために山に登られました。

すると、
29:ルカによる福音書/ 09章 29節
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。

神に祈る中で、キリストの顔の様子が変わり、着ている服は白く光り輝き始めました。

この「変わる」と訳されている言葉は「異質的な」という意味です。
キリストの御顔が変わったということは、この世のものとは異なる姿になられたということです。
この地上ではどこにも見出すことができないキリストの姿、、、それはキリストご自身だけが持っていた光り輝く姿です。

この箇所を読むとおそらく多くの人達は、キリストが栄光の姿に変わられたのを見て、「今までナザレの大工だと思っていたキリストが急に変身した、変貌してしまった」と驚きます。
しかしある聖書学者はこのように言います。
「キリストは、山の上で神のお姿に変わったように見えるが、実はあの光り輝く姿がキリストの本来の姿、元々の姿である。
むしろ神の子が人間となって大工の息子の姿で生活されたこと自体が変化であって、山の上で変わられたのは元々のキリストの姿が見えたのである」と。
そう、光り輝く姿こそがキリストの元々のお姿、神の子であることを示しているのです。

私たちは、自分たちの生活に起こる様々な悩みや嘆き、喜びなどをキリストに打ち明け、まるで親友と話すように語り合うことが今はできます。
キリストはその交わりを何より喜んで下さいます。
しかし、私たちがキリストの変貌し光り輝く姿を聖書を通して見る時、改めてキリストは私たちとは全く違う異質な存在、特別で聖い存在であることを知るのです。

このように、キリストはご自身の変貌を通して弟子達に、ご自分が人であると同時に、神の子であることを示されました。

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2つ目のポイントは、キリストの変化は、救いを成し遂げるお方を示す、ということです。

聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 30節
見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。

光り輝く姿に変わったキリストは、モーセ、エリヤと話していました。
この二人はすでにこの世にはいない人たちです。
しかし、彼らはここでキリストと語り合っていました。

モーセ、、、彼は旧約聖書の最初の5つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という旧約聖書の「律法」と呼ばれる部分を記した人物です。
一方、エリヤは旧約聖書に登場する多くの預言者を代表する人です。
つまり、モーセとエリヤというのは、旧約聖書の律法と預言書を代表する人物であり、旧約聖書全体を象徴しています。
キリストがモーセとエリヤと3人で話しているというのは、聖書全体が貫いている中心的なテーマについて話していることを意味します。

では、この3人は何を話していたのか。
ルカによる福音書/ 09章 31節
二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後のことについて話していた。

この「最後」と訳されている言葉は、エクソダス、という言葉で脱出を意味する言葉です。
元々は、この世から脱出するということで、死ぬことを意味していました。
キリストがエルサレムで脱出して死んでいく、、、それは十字架にかかって死ぬことを意味しています。

そして、この「最後」エクソダスという言葉は、死ぬ以外にもう一つ意味があります。
エクソダス、とは、旧約聖書にある出エジプト記のことを指す言葉です。
出エジプト記は、エジプトで奴隷として苦しんでいた民たちが、モーセに導かれてエジプトを脱出し、救われるという神の救いの業が記された書物です。
民がエジプトから脱出するためには、子羊の血が必要でした。
子羊を屠り、その血を家の門に塗る事によって神の裁きを免れ、今まで苦しめられてきたエジプトから脱出することができました。
同じように、神の子羊なるキリストが十字架にかかることによって、その流された血で私たちは罪赦され、神の裁きを免れることができるのです。
そして、罪の奴隷の状態から脱出し、復活の命に生きることができるという神の救いの業が出エジプト記に、エクソダスには示されているのです。

人間を罪から救い出す神のご計画、、、これが聖書全体の中心的なテーマです。
神はモーセやエリヤなどをたてて、神から離れた人間が立ち返るように働きかけて来ました。
この救いのご計画が、キリストによってついに完成されるのです。
だからこそ、31節で「遂げようとしておられる最後のこと」と記されているのは、旧約時代から神が考えておられた救いのご計画が、キリストによってついに成し遂げられることを意味しているのです。

キリストは人となり、この地上に来てくださいました。
私たちと同じ姿、形で一緒に歩んで下さった。
それは私たちの十字架を背負うためです。
キリストが人となったからこそ、十字架を担ぐことができました。
この十字架は、罪ある人が背負っては意味がありません。
罪ある人が十字架を背負って死んだとしても、それはその人自身の罪だけを贖うに過ぎません。
全ての人間、私たちの罪を背負うには、罪の無い神の子、光り輝く神が人となって十字架を背負う必要がありました。
このことによって、今や私たちは罪から、そして永遠の滅びである死から脱出することができるようになったのです。

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では、この光り輝く神の子であるキリストに対して、私たちはどうしていけばいいでしょうか。
3つ目のポイントは、神の子キリストに聞き従う、ということです。

聖書は言います。
32:ルカによる福音書/ 09章 32節
ペトロと仲間は、眠りこけていたが、目を覚ますと、イエスの栄光と、一緒に立っている二人の人が見えた。

キリストが光り輝き、モーセとエリヤと共にいる時、弟子たちは眠りこけていました。
しかし、キリストの放つ光があまりにも眩しかったためか、彼らは途中目を覚ましました。
そして、モーセとエリヤが話を終え、キリストから離れようとした時、ペトロはいいました。
33:ルカによる福音書/ 09章 33節
「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのために。」
ペトロは、自分でも何を言っているか、分からなかったのである。

この箇所に「自分でも何を言っているか、分からなかったのである」とありますが、ペトロの気持ちは分かるような気がします。

モーセやエリヤ、、、ペトロ達にとって偉大な歴史上の人物であり、憧れの存在です。
それはある人にとっては、織田信長や徳川家康のような存在、また音楽家であれば、バッハやモーツアルトのような存在です。
そのような偉大な人物がキリストと話をしている光景を見たら、少しでも長く見続けたい、留めておきたいと思うことでしょう。
だからこそ、ペトロは幕屋を3つ建てて、そこに3人がとどまってもらえば、この素晴らしい光景を少しでも長く見続けることができるのではないかと思い、幕屋を三つ建てましょうと言ったのだと思います。

しかし
ルカによる福音書/ 09章 34節
ペトロがこう言っていると、雲が現れ、彼らを覆った。彼らが雲に包まれたので、弟子たちは恐れた。

モーセとエリヤ、そしてキリストは雲に包まれました。
雲は、旧約聖書において、神が人間に出会おうとなさる時に現れるものです。
つまり、この雲の出現は、ペトロの「いつまでも見ていたい」という願いに対する神の答えでした。
そして神の答えは、モーセ、エリヤの姿を隠し、キリストだけをそこに置かれました。

35:ルカによる福音書/ 09章 35節
すると、雲の中から、「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」と言う声がした。
36:ルカによる福音書/ 09章 36節
この声がしたとき、イエスだけがそこにおられた。弟子たちは沈黙を守り、見たことを当時、誰にも話さなかった。

神はペトロに答えられたのです。
「ペトロよ、モーセもエリヤも私がそれぞれの時代に立てた器である。
あなた達にとっては、偉大な人物であろう。
しかし、彼らがあなた達人間の救いを完成させる者ではない。
これからエルサレムで救いの完成を成し遂げるのは、私が選んだ、イエス・キリストだけだ。
このキリストの言葉を聞いて、あなたたちは生きよ」と。

現代は、多様性が重んじられる時代です。
あなたの意見も、あの人の意見も、それぞれが尊攘されるべきだと考えられています。
確かに、様々な意見や価値観が尊重されることは大切であり、これによって今まで生きづらさを感じていた人達が、少しでも楽になることは良いことです。
しかしその一方で、人は迷う。
「あれもいい、これもいい」と言われると、結局何を信じていけばよいのか、分からなくなってしまい迷い続ける、、、これが今の私たちです。

しかし聖書は言います。
「これは私の子、私の選んだ者。これに聞け」

大量に情報がある中でも、神が選ばれたイエス・キリストの声を信頼しながら生きていけばいい。
なぜならキリストこそが、私たちを死から脱出させ、新しい命を与えて下さる真の神の子だからです。
この方の言葉に聞き従っていく。

様々な価値観があり、どれも良い、どれも大切だと言われる今の時代の中で、光り輝く姿で今日も私たちを導いて下さるお方がおられます。
このキリストの言葉を信頼して歩んでいく、、、これがキリスト者の生き方です。

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結語
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聖書は言います。
ルカによる福音書/ 09章 29節
祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は白く光り輝いた。

今日は変わる、変貌というテーマーで3つのポイントで見てきました。
1つ目、キリストの変化は、神の子を示す
2つ目、キリストの変化は、救いを成し遂げるお方を示す
3つ目、神の子キリストに聞き従っていく

キリストは今日も言われます。
「私は人の姿になり、あなた達を罪から、そして死から脱出する道を打ち立てた神の子である。
あなたの命を救う私の言葉に耳を傾け、今日も生きよ」と。

だから、私たち教会は、光り輝く神の子、イエス・キリストの御言葉に今日も聞き従っていこうではありませんか。

祈ります。
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祈り
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天のお父様、キリストが光り輝く姿は、あなたが選ばれた神の子であることを私たちに現して下さっています。

キリストが十字架に向かう事について、モーセたちと語り合い、
私たちを死から解き放つ道を完成させてくださったことに感謝致します。

様々な情報が氾濫しているこの世の中で、私たちを正しい道に導くあなたの声に今日も耳を傾けていくことができますように助けてください。

イエス様のお名前によって祈ります。
アーメン。


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