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散財記⑥ キジマタカユキ WORK CAP for Ryuichi Sakamoto

色々なモノを買ってきた。「一生モノ」と思って買ったモノもあれば、衝動買いしたモノもある。そんな愛すべきモノたちを紹介する「散財記」。6回目は、キジマタカユキのキャップだ。

これまでに、たくさんの帽子をかぶってきた。怖くてちゃんと数えていないが、今までに買った帽子は、20を軽く超えるだろう。そのうち現役で使っているものはほとんど無い。あれだけあった帽子は一体どこに行ったのか。靴屋さんに住むこびとさんが持って行ったのかもしれない。

そんな帽子好きの私だが、長らく帽子が似合わないタイプだと思っていた。どういうわけか、帽子をかぶるとすごく変に見えるのである。キャップでもハットでもビーニーでも、ありとあらゆる帽子が似合わない。世の中には星の数ほど帽子があるのに、なぜ自分に似合う帽子が存在しないのか。これは、大いなる謎であった。

不思議なことに、路上や電車の中ですれ違う人の帽子姿を変だと思ったことはない。普段の彼or彼女の姿を知らないからかもしれないが、「この人、帽子全然似合わないなぁ」と思ったことはない。むしろ、自分では思いつきもしなかったような合わせ方をしていて、参考になることばかりだった。ファッションというのは自由なんだなと改めて思い出させてくれる。電車の中や路上で出会う人たちは、ファッションの生きたお手本だと思う。

しかし、「ファッションは自由だ!」と意気込んで彼らのスタイルを取り入れようとすると、なぜか全く様にならない。「服に着られている」という言葉があるが、私の場合、「帽子にかぶられている」という感じだ。「なぜだ、なぜ俺には似合う帽子がないのだ?」 私はハムレットのように苦悩した。

その謎は、帽子ブランド「カシラ」にお邪魔した時にあっさりと解けた。「帽子が全然似合わないんですけど」的な話をしたら、「それは、ご自身が『似合わないなぁ』『変だなぁ』と思って鏡の前に立っているからですよ」というようなことを言われたのだ。普段、何も無い自分の顔を見慣れているから、帽子というある種の異物がある姿を「変だ」と認知しているだけというのである。

「なるほど」と膝を打った。変だと思っているのは、自分だけ、もっと言えば、脳だけなのである。だから、電車の中で帽子をかぶっている人を見ても、特段変だと思わないのだ。だって、その人は私にとっては最初から「そういう帽子をかぶっている人」なのだから。

平野啓一郎氏が、「人間は、他者と関係するたびに、その人との間だけで共有される『分人』を生み出しているのだ」ということを主張されている。ある人にとってはすごく尊敬できるすばらしい人格の人間が、別の誰かにとっては唾棄すべき存在ということはままある。それは、その個人の本質がどちらかということではなく、関係する他者との間にその都度「分人」が誕生しているからだ、という趣旨であったと記憶している。(下記リンク参照)

だとするならば、帽子をかぶるだけでも「そういう人」という新たな分人が生まれているのではないか? いいじゃん分人! (全然違う気もするが、ここではそういうことにしておく)



という訳で、やたらと帽子を試すようになった。世の中、色々な言い訳があったものである。

元々、かぶり物は大好物である。アウターやボトムス、シューズやアイウェアといった他のアイテムに比べて、帽子は比較的手頃な価格帯に所属している。財布に対する言い訳も特段必要ないので、みるみる内に帽子ばかりが増えてしまった。ほとんどマドハンドである。

そうなると、当然、似合わないモノも増えてくる。服でも靴でもなんでもそうだが、なぜか一定程度似合わないモノを買わないと審美眼が養われない。これも不思議である。靴なんて試し履きで良いか悪いかわかるはずなのに、なぜか微妙にサイズの合わない品を買ってしまう。勉強でも運動でも、失敗からしか学べないタイプの人間なのかもしれない。単純に元々のセンスが壊滅しているだけかもしれない。

似合わないモノの登板機会が減るのはアイウェアと同じである。何種類か持っていたニューエラの帽子は、すべて家人にあげてしまった。カシラが販売した「男はつらいよ」の寅さんハットのレプリカがお気に入りでずっとかぶっていたのだが、山田洋次監督にお会いした時にサインをもらい、永久保存版になってしまった。そんなものとてもかぶれない。寅さんのスタイルってめちゃめちゃお洒落だよなあ。あまり共感されないけれど。

そんなこんなで10年くらいかけて様々な帽子を試した結果、ノースフェイスのキャップとハットが生き残った。いずれも黒い帽子である。

キャップは、ジョギングからサッカーの練習からボルダリングまで、ありとあらゆるスポーツ時に使用している。ニュートラルワークスとのダブルネーム(?)で、シンプルなところが気に入っている。かれこれ5年くらいかぶっているが、多少色が薄くなったくらいで全くへたらない。いよいよダメになったら同じモノを買うと思う。そのくらいお気に入りである。

もう一つのハットはバケットタイプで、ツバが小さめのタイプだ。サイズが調整できる所が良い。頭が成人男性の通常サイズと比べて小さいので、サイズ調節機能は必須なのだ。風が吹く度に飛んだ帽子を追いかける初老男性の姿はあまり見たくないと思う。飛び出して轢かれそうだし。

さて、「キジマタカユキ×サカモトリュウイチ」である。教授が生前、キジマタカユキに特注したワークキャップを商品化したものだという。どことなく、キース・リチャーズのドクロリングのレプリカが市販されたケースに似ている。モノの背後に作り手の物語が見える品が好みである。

早速、ネットで注文した。到着までは3か月ほどかかるらしい。待つのは大好きなので、ゆっくりとその時間を楽しむことにする。年を取るにつれてだんだんと楽しいことが少なくなってくるが、確実に明るいことが待っているというのはなかなか良いものだ。アマゾンが世界的に広がったのは、きっとそのワクワク感もあってのことだと思う。何かが到着するのを待つなんて、子どもの頃のクリスマスくらいだったし。次から次へとポチッてしまうのが困りものだが。

待つこと3か月、届いたキャップは、シンプルの一言だった。一見すると、単なる黒いワークキャップだ。ワークキャップのオリジナルは、1920年代にアメリカで鉄道作業員向けに作られた帽子らしい。確かにオーバーオールとか、ジーンズとか、その手のアメカジとの相性が良さそうだ。なんとなく、スーパーマリオを思い出す。

ただ、そこはキジマタカユキ。かぶってみると、ワークテイストは良い感じに薄まり、そこはかとないドレス感さえ漂う。ツバが短めなのも好みだ。色はかなり暗めの黒である。墨の色のような感じで、実に渋い。

頭頂部を覆う部分は、4枚の布を組み合わせて作られている。通常は1枚布で作るらしいが、さすがの凝り方だ。そのおかげで、かぶると絶妙な丸みが出る。ワークキャプの平らなシルエットが苦手だったのだが、軽々とクリアしている。教授は「NYのレストランにも被っていけるようなシックなワークキャップ」と注文したらしいが、なるほどとうなずける作りだ。一発で気に入ってしまった。

しかし、最大の問題があった。サイズである。頭蓋骨の大きさを勘案して、最も小さな「1」(直径57㌢)というサイズを選んだのだが、どうにも微妙な違和感がある。「ぶかぶか」とまではいかないが、「ふかふか」くらいには隙間がある感じだ。個人的にぴったりから少しきついくらいのフィット感が好きなので、ゆるいというのはゆゆしき問題である。

ノースフェイスのキャップと違って、教授モデルには調節機能は無い。自前で何とかするしかない。そこで購入したのがニューエラの汗止めだ。平たく言えば、ちょっと厚手の細長い布である。帽子の裏側の滑りと呼ばれる部分に両面テープで貼り付けて、汗が直接帽子につかないようにするという便利グッズである。

これを貼り付けたことで、サイズ問題は解決した。汗や皮脂汚れも気にならない。毎日、機嫌良く外出している。ノースフェイスのフィット感に慣れてしまった身には、若干の違和感があったが、何度か着用する内にしっくりとなじんできた。今では、無いと不安になる始末である。使い込んでへたってきた時の感じも楽しみだ。やはり、良いモノは理由があると思わせてくれる一品だった。こういう品と出会えるから、散財家はやめられない。

この帽子を被ってNYのレストランに行くことが、人生後半戦のささやかな夢である。その時にはどんな格好をしようかなと、今からワクワクしている。


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