散財記④ ルナサンダル べナード
「一生モノ」と言い訳をして買った数多の品の中から、本当にお気に入りの一品を紹介する散財記。4回目は、ルナサンダルのべナードだ。
走ることが好きである。
最初に断っておくが、フルマラソンで10年連続してサブスリーを切ったとか、サロマ湖ウルトラマラソンを制限時間内に走り切ったとか、そういう華々しい戦果は全くない。小学校時代の冬のマラソン(と言っても3キロかそこいら)では、隣のクラスの鈴木望くん(通称:ムーちゃん)と熾烈なビリ争いをしていた。冬になると、あのT県S市のAY川周辺のキリッと冷えた空気を思い出す。寒かったなあ、色々と。
そんな訳で、ずっと走るのが苦手だった。中学でも高校でも、まともに走ったことはほとんどなかったんじゃ無いかと思う。筋金入りの帰宅部兼文学少年だった私は、ギリシャの賢人や古代中国の竹林の七賢人的な文化人に憧れていた。身体を鍛えないという一点において、三島由紀夫の「豊饒の海」の松枝清顕が理想だった。あちらは華族様なので、運動をしないということ以外に何一つ共通点が無かったということもある。そもそも、綾倉聡子みたいな恋人がいたら、一人で三島なんか読んでない絶対に。
そんな私が走ることに目覚めたのは、やはり、本の影響が大きい。はっきり言えば、村上の春樹さんである。
大学生時代にハルキさんが暮らしていた学生寮に住んでいたこともあって、春樹文学を手当たり次第に読み漁った。今でも、大好きでずっと読み続けている。どのくらい好きかというと、日本語版をほとんど暗記するくらいに読み込んでしまったので、仕方なく英語版で読んでいるくらい好きである。友人が中国旅行のお土産に「ノルウェイの森」の中国語版を買ってきてくれたのだが、それもなんとなく読めてしまった。恐ろしい話である。
そんな中でずっとお気に入りなのが、「遠い太鼓」というエッセイである。一種の紀行文、旅行文学なのだが、これがめっぽう面白い。イタリアやギリシャの風景が例の文体で描かれていて、何度読んでも飽きない。年金を心待ちにしているヴァンゲリスさんとか、元外交官のウビさんとか、出てくる人物も実に変わっていて、人生っていいなと思わせてくれる。ワインも美味しそうなんだよねこの本。
私見だが、ハルキさんはエッセイが一番面白いかもしれない。エッセイを読むと、オンエア中の「村上Radio」のあの感じが良く分かる。
松浦弥太郎さんは、旅行に「ナイン・ストーリーズ」と「オン・ザ・ロード」を持っていくそうだが、私にとっては「遠い太鼓」がそれである。特に出発前の空港で読むと素晴らしく気分が良い。あゝ、旅行に行きたい。Traveling without moving も良いけど、時には実際に飛行機のシートに身を沈めたいという思いに駆られるのもまた事実である。
そんな村上主義者の私なので、当然走ることにも目覚めるのである。就職氷河期ど真ん中の就職活動に失敗して色々としんどかった時期で、ビールを飲みすぎて太ったという止むに止まれぬ事情もあった。むしろ、そっちの方が比重としては大きいかもしれない。
とりあえず、その辺にあった適当なジョギングシューズ(というか古いスニーカー)を履いて走り始めた。コースは、小学校時代に走ったAY川周辺である。走ってみると、これがなかなか気持ちよい。周辺には田植えが終わったばかりの田んぼが広がり、初夏の柔らかい風が水面にさざ波を立てている。空にはピヨピヨとヒバリがさえずり、実に牧歌的な風景である。
就職活動で見も知らぬ初老の男性から存在を否定され続けた身に、その光景は実に優しく、そして、温かかった。走っている間は何も考えなくて済んだ。風景の中を、20数年前に誕生した有機物の集合体が移動しているだけ。そこには社会的な評価も、将来への不安も、そして人生の意味も存在しなかった。
春先から初夏に季節が移る頃には、走らずにはいられなくなっていた。なにせ他にやることがないのである。走った後のビールが異常にうまかったという副次的効果もあり、毎日アホみたいに田んぼの中を駆け回っていた。
走ったことで前向きになった訳でもなかったが、秋口に何とか就職先を見つけることができた。以来、20年間もその会社で働いている。暇なので、走りながら将来についてあれこれ夢想していたのだが、今思えば、その多くが実現している。偶然だとは思うが、夢について具体的にイメージしながら走ると色々なことがはかどるかもしれない。うかつなことは言えないけれど、人間の信じる力というのはなかなか侮れないものがある。
ただ、仕事が始まると、走る時間が全く無くなった。最初の赴任地は山だらけのN県だったので走るにはもってこいの土地だったのだが、とにかく時間がない。新しい土地で新しい仕事を始めるのは思った以上に大変で、家に帰ったらひたすら眠るだけの毎日が続く中で、あれだけ好きだったジョギングから足が遠のいてしまった。
再び走り出すのは、それから約10年後。1冊の本との出会いがきっかけだった。
「ボーン・トゥ・ラン」(BTR)である。
ハイテクシューズを履いていても走ると足が痛むのはなぜか、というシンプルな疑問から出発し、最終的に人類は走るために生まれたというぶっ飛んだ結論にたどり着く驚異の1冊である。私が感動したのが、なぜ足の遅い人間が、あんなに足の速い動物(ガゼルとかインパラとか)を狩ることができたのか、という疑問への答えだ。ネタバレ(というのか何というか)になるから言及は避けるが、なるほどと思わせる見事な結論であった。
この本の中で紹介されていたのが、「ワラーチ」だ。メキシコの「走る民族」と呼ばれるタラウマラ族の履物で、古タイヤを足型に切り抜き、それに紐を通して足首に結えるだけのシンプルなモノだ。ほとんど裸足だが、タラウマラ族はこれを履いて、メキシコの大地を高速で走り回っているそうだ。
そんなタラウマラ族からワラーチの作り方を教わったのが、ベアフット・テッドことテッド・マクドナルド先輩。BTRにもしっかりと登場する彼が作ったのが、「ルナサンダル」なのだ。ここまで長かったぜ!
ちなみにベアフットは、Barefoot と書く。Bearfoot では無いので念のため。日本語で書くとどちらもベアだけど、裸足と熊足では大違いだ。
テッド先輩によると、ワラーチ(ルナサンダル)で走ると無理の無い走り方ができ、自然な身体の使い方を学ぶことができるという。自然な体の使い方なら、ぜひ御指南いただきたい。光の速さでルナサンダルをポチった。サイズは7。思い立ったが吉日、「欲即買」の精神だ。もはや、牙突零式である。
ルナサンダルには靴底の厚みに応じて、いくつかの種類がある。トレイルランにも対応できるくらい厚いソールのモノもあるが、私は「べナード」という究極にシンプルなタイプを選んだ。ペナペナなビブラムソールにナイロン製とおぼしきベルト状のひもが通されている。草履をシアトル風にアップデートしたような見た目だ。見た感じ、特に所有欲をくすぐられるような代物ではない。
早速、履いて走ってみる。形状からしてさぞ靴擦れがひどいのではないかと危惧をしていたが、不思議なことに全く痛みがない。足の裏にピタリと吸い付く感触でどんどんと足が前に進む。テッド先輩の言うとおり、足が勝手に着地しても痛くない箇所を探して、自然とフォームを改善していくような感覚だ。
厚底シューズに代表されるハイテクスニーカーは、いかに足への衝撃を緩和するかという視点で作られている。その代表がエアマックスだろう。着地の衝撃をエアを封じ込めたパーツで緩和するという発想には、当時中学生くらいだった私は衝撃を受けたものだ。
ちなみに、エアマックス狩り全盛期に、かの95も買った。場所は神戸の三宮。イエローとかブルーとは当然無く、ホワイト×ブラックのバージョンであった。サイズは理外の28㌢。店員のお姉さんの(本当にいいの? 別にこっちは商売だから構わないけど、それデカくね?)的な目線を今でも思い出す。そう思ったなら言って欲しかった。昔からアホである。
さて、ルナサンダルである。履いた時は良かったのだが、翌日の筋肉痛がひどかった。「なんでこんなところが痛いの?」という箇所が信じられないくらい痛い。中でも腹筋が痛くなったのには驚いた。普段、シューズのクッション材で感じていなかった地面からの衝撃を全力で腹が受け止めたのだろうか。ルナサンダルに限らず、ベアフットシューズは慣らし運転として歩くことから始めるのが良いそうだが、調子に乗って6㌔も走ってしまったのが、良くなかったのかもしれない。
それでも、ペタペタとがんばって走り続けていると、次第に体が慣れ、うまい具合に着地の衝撃を分散させる走り方ができるようになってきた。多くの日本人と同様、私も走る際にかかとから着地する「ヒールストライク」という走法で走っていた。だが、ほとんど裸足のルナサンダルで走ると、かかとから地面に足をつくと単純に痛い。痛いのは嫌なので、できるだけ衝撃の少ない走りを体が模索し、最終的に足の中央部分から着地する「フォアフット」に変わってきたのだ。
エアマックスはかかと部分に分厚いクッションがあるが、ルナにはペナッとしたソールしかない。必然的に足をすり足気味に動かして、なるたけ衝撃を受けないように走るようになったのだろう。テッド先輩の言っていたことはこれか!と深く納得した。
ただ、弊害もあった。他のシューズが履けなくなってきたのである。
一般的にランニングシューズは、靴の中で足が動く作りだ。長距離を走ると足がむくむということで、1㌢くらい大きめのサイズを勧められることが多い。
ちょうど、箱根マラソンをナイキの厚底シューズ・ヴェイパーが席巻していた時期で、ご多分に漏れず、私もその手のシューズを何足か購入した。ナイキのエアフライイーズとか、ホカのボンダイとかクリフトン7とか、オンのクラウドとか、色々と試してみた。それぞれにすばらしいシューズで、違った方向から走る楽しみを教えてくれた。全部しっかりと履きつぶした。みんなありがとう! この場を借りて、お礼を言いたい。ビバテクノロジー!
一方、かかとと足首のひもで固定する構造のルナサンダルは、足にピタッと密着する。締め付けが緩いと走れないので、必然的に飛ぼうが走ろうが、足の裏からサンダルは離れない。
この感覚に慣れてしまうと、靴の中で足がずれるシューズが気持ち悪くなってくる。構造上仕方無いのだが、履き心地では圧倒的にルナサンダルの勝ちである。靴下を履く手間さえ面倒くさくなり、現在では走るときは100%ルナを履くようになってしまった。
軽くてかさばらないので、旅行や出張にも持ち出し、出先でのランを楽しむようにさえなった。北海道各地のほか、京都や沖縄、はたまたポーランドやその近辺など、色々な所を旅した。素肌に触れて、色々な経験を共にする。ルナサンダルは、まさに人生の相棒と言えるかもしれない。
日常生活でも5月くらいから10月くらいまではずっとルナサンダルで通している。仕事中は仕方がないのだが、プライベートはすべてルナだ。実は、今までに一番散在してきたのは、高級革靴なのだが、それも段々とルナに出番を奪われつつある。恐るべしルナサンダルである。
現在、履いているベナードは2代目だ。初代のベアードは履きまくった結果、ソールがツルツルになり、木の葉のように薄くなったため、世代交代と相成った。5年間、ほぼ毎日のように履いたので、天寿を全うしたと思う。いくら相棒でも、ちょっと濡れた路面を踏むたびに盛大にすっ転んでいるようでは、走る以前の問題である。
初代は、通常のベナードだったが、2代目はちょっと奮発してプレミアムを買った。素材が革になり、ベルトが革紐になった。通常版はベルトをマジックテープで留めるスタイルだったが、プレミアムは革紐なので、足首で縛る形に変わった。それに伴ってソールも分厚くなっている。見た目は圧倒的にプレミアムがカッチョ良い。
一方で、携帯性は少し犠牲になっていると感じる。ソールと革紐をつなぐためにV字型の樹脂製パーツが追加されていることで高さが出てしまい、かさばるのだ。通常版がビーチサンダルだとすると、プレミアム版はビルケンシュトックとでも言ったら良いだろうか。まあ、そんなに持ち運ぶこともないので特に問題にはならないが、次に買うときはまた通常版に戻そうかなとも思う。
ルナサンダルを履くうちに、「一生モノ」の概念が変わってきた。これまでは、高級で死ぬまで同じモノを使い続ける物体こそ「一生モノ」だったのだが、さすがにルナは死ぬまでは持たない。同じモノを継続して買い続け、使い続ける。同一性こそないもの、それも「一生モノ」と呼べるのではないだろうか。まるで「テセウスの船」である。いずれにせよ、ルナと出会っていなかったら、高いモノを所有する喜びしか感じられない人生だったかもしれない。
ちなみに、ルナサンダルのベースとなったワラーチは、ジャック・ケルアックも履いていたようだ。松浦弥太郎先輩のバイブル「オン・ザ・ロード」にこう書いている。
「まったくバカなことに、僕が履いていたのはメキシコのワラチという葉っぱみたいなしろもので、アメリカの雨の夜や荒れた道の夜には向いちゃいないのだ」(河出書房新社版 p.25 青山南訳)
葉っぱみたいな代物。なるほど、言い得て妙である。