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『文學界』10月号に尾崎世界観『転の声』(文藝春秋)の書評を寄せています。
惜しくも芥川賞受賞ならなかった本作ですが、書評は日本初のプレミア(ム)マーケティング論としてビジネス界で17年前に話題となった写真の本の引用から始めています。
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というのも、この小説は本来的な価値の超過分であるプレミア消費が音楽のシーンと結びつき、ある臨界点を超えてしまった世界を描いた作品だからです。
前掲のマーケ本を手かがりに、本作にあらわれている現代的な空虚さとは何かを考えました。
僕は、プレミアという虚構に呑み込まれ、現実の重さを実感できなくなった大衆の精神性を描いたのがこの作品だと思っています。語り手の内面的な造形やサブキャラの描写についてあれこれ議論があったようですが、あんま関係ないかなと思っています。
17年前に「プレミア」現象が騒がれたときに前掲マーケ本の著者は〈使い捨て、安売り、投売りといった未熟な生産・消費社会から、本当によいものを選び、大切に使いながら、生活を豊かにするという「スマート」な生産・消費社会へ移行するというのが、成熟社会の大きな流れである〉と予言していのですが、さてそこで想定された社会が、現実にはどうなったのか。そこも書きました。あわせてお読みください。