ガザに見るヒト進化論の曲解一考。
妄想閑話 1種1型
まことに不謹慎だけど、ガザに見るヒト進化論の曲解一考。
イスラエル紛争下では、民衆のほとんどが相手国を非難し、和平の声を一掃している。NHKの番組では、歴史の大学教師が、相手の惨状や和平、話し合いを訴えて、学校から追い出されていた。教え子や同僚から暴言暴力を受け、非国民、犯罪者、神の罰を与えよと非難されていた。こういった環境下では、相手を理解しようという人たちは排除されて、武器を取って先手必勝、強くて用心深く殺しを躊躇しない人が選ばれて子孫を残していく。進化論のごとく環境に即した取捨選択が行われている。さらに今の争いは過去からの敵対憎悪が取捨選択された結果なのだけれど。
話題はヒトの進化論。自然環境下のヒトの暮らし
今見ているこの戦争の状況、領土と種の存続のために争う姿は自然界の本来の姿だろうと想う。ネアンデルタール人もホモサピエンスも、野生世界では他の捕食者に囲まれて戦場さながらの状況下で暮らしていたことだろう。領土を棲み分けて争いを避けて、種を守っていけるなら申し分ない。1種1型という言葉を聞いた。同じ環境で2種は住めない。そこでは取捨選択が機能する。その領土に固執するならどちらかが適応し、他方が切り捨てられて系統樹は途切れる。
争いの環境が続く限り文明は無く学問も文化も芽生えない。選択されるのは生き残りの優勢、肉体的に強固で安定に固執、変化に敏感で慎重で臆病、話し合いより先に噛みつく形態が生き残っていく。結婚相手に選ばれて子孫に伝わる。ひ弱な穏健主義の科学も文学もアートもすぐさま駆逐されるだろう。戦争当事国ではそれが起こっている。同じ状況がヒトの進化上にあったと思うのです。
それで生態系のバランスが取れて進化の進行が成り立っていた頃から、どういった過程を経て、知能、知識、文化の世界が現れたのか。それが取捨選択される環境になったのはなぜか。のほほんとのんきで安気な科学、アート、文明があって、生きていけて子孫を残せる環境。それには、誰からも確実に攻められない、襲われない、飢えないという永い時間が必要。野蛮な形質が駆逐され、数学や、哲学や、音楽、が学ばれる状況が取捨選択される。脳内もまた臆病で疑心暗鬼で攻撃的な領域が減って、学びや遊びの快感がそれに代わる。おそらくそういった過程を経てホモサピエンスが現在の位置に立てたと想う。
“安堵な環境”と仮に呼ぼう。ロシアから報告された狐の家畜化の実験はそれを現している。家畜化は、ネオテニーを生む。ネオテニーは学びや好奇心、冒険への動機になる。家畜化の実験はそれを実証した。家畜化>ネオテニー>知能 はつながったように想う。
さて次の問題は、最初にどこでどんな状況下で家畜環境が生まれたかと言うこと。ホモサピエンスと犬なのか、ネアンデルタール人、類人猿や猿人がそこに絡んでいるのか。誰が飼い主で、誰がペットになったのか。ペットは飼い主を駆逐したのか。それは細かな進化の階段なのか、はたまた天の采配、偶然の術なのか。自然環境課や異種の組み合わせの妙なのか。
条件としては、近くに異なった種がいて、敵対的で無く棲み分けができていて、双方が臆病で攻撃的では無かったこと。他にも組み合わせる要因があるかも知れない。これまで選択されなかった条件が、方向転換で生存に優位に立った訳は?
まずはここまで、妄想はさらにふくらむ。