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海外移籍のススメ
海外への憧れ
僕のサッカー選手としてのキャリアはちはら台SC(小学校)→三井千葉サッカークラブジュニアユース(中学時代)→八千代高校→専修大学→1.FCケルン(セミプロ)→1.FCケルン(プロ)→ジェフユナイテッド千葉→浦和レッズというキャリアです。ブンデスリーガでプレーした選手はたくさんいますが、大卒ブンデスリーガーとしては初めての選手です!
大学卒業後にいくつかJリーグのクラブからオファーもいただいていました。僕の周りの方からもまずはJリーグで結果を残してからとアドバイスを下さった方もいました。でも幼い頃から海外でプレーしてみたいという憧れがあり、プロ契約ではなく練習生という形だったのですがドイツの1.FCケルンという当時2部のクラブでプレーすることを選択しました。
ブンデスリーガで3シーズンプレーできたことは貴重な体験でしたし、もっと多くの選手にチャレンジしてもらいたいという気持ちもあります。
最近は世界のサッカーと身近に触れる機会も多く、将来は海外でプレーしてみたいと思う全国のサッカー少年は僕の子どもの頃より多いのではないかと思います。
そんな想いから去年は早稲田大学大学院で日本人サッカー選手の海外移籍についての研究をしてきました。移籍金がどうこうというビジネスサイドの話は、スポーツビジネス系の本や記事で読んだことがありましたが、選手の目線で海外に移籍すると、どんなことが起こるのか何をすると良いのか、ということは意外と分かるものがありません。
僕自身海外への憧れは人一倍強かったと自負はしていましたが、いざ移籍するとなると何をすれば良いのかさっぱり分からず、当時を振り返ると短期間に色々なことがありすぎて本当に苦労をしました。
僕自身がどのような経緯で海外移籍に至ったのか、その時々でどのような想いで決断していったのかを改めて振り返ってみることで、目をギラギラ光らせた若い選手たちの将来の選択肢を広げる一つになればと想い「海外移籍のススメ」というテーマで今後書いていきたいと思います。
なぜ海外だったのか?
僕の父は22歳の時に仕事を辞めて30歳まで海外でプロスキーヤーとしてスキーをしていました。シーズンスポーツだしサッカーや野球のようにメジャースポーツでもないスキーをこよなく愛し、大人になってからも夢を追い続けた話を小さい頃に父から聞いていました。
大学4年生、21歳の冬に僕はドイツ移籍の判断をしました。Jリーグクラブではなく、なぜ給料も低く自分への評価もない海外クラブへ移籍を決断したのか。それはどうしても海外でプレーしてみたかったからです。夢でしたし。プロになれなくても海外にサッカーをしに行っていたと思います。そんな風に学生の僕が漠然と海外志向になったのには、自分の育ちが関係していたのかもしれません。
大学時代を振り返る
海外移籍に繋がったポイントとして大きく3点あったと思います。
①ダメ元で言葉にしてみる
②絵を描く
③視野を広げる助言
①ダメ元で言葉にしてみる
プロポーズ大作戦というドラマのワンシーンのセリフです。
ダメで元々って、
— 妖精 (@yousei_da) April 15, 2015
いい言葉だと思わないか?
ダメ元でやってることが、ことごとくダメだったら人生やってられないけど、
そうじゃないだろう。
ダメ元がたまに成功しちゃうから人生面白いんだよ。
失敗しても、当たり前、
成功したら、男前。 pic.twitter.com/QzMXEiQdm1
まさに僕もこんなダメ元精神で海外でプレーしたい!と言葉にしていました。
Jリーグのスカウトの方にすらも、「僕、海外に移籍してプレーしたいんです。」と言っていました。
スカウトからすると、まずはJで活躍してから言おうよ、、という感じだったのでしょうか。無知って強いですね。(当時の浦和のスカウトは現在監督の大槻さんで、その当時から存在感はすごかったです。まだオールバックではなかったですが。)
大学選抜の海外遠征の時も帯同スタッフに海外でプレーしたい!という想いは伝えていました。そんな中、迎えた大学選抜ドイツ遠征でブンデスのスカウトの目に止まり、僕の想いがあちらのスカウトに伝わったこともあり、2週間の練習参加の話をいただきました。
そこからオファーを勝ち取り大卒日本人選手としては初のブンデス移籍が決まりました。
日本の大学生がブンデスクラブの練習に参加できること自体嬉しかったし、まさにダメ元精神で思いっきりプレーできたことがアピールによかったのかもしれません。
言葉にすることの大切さを川崎の小林悠選手も書いています。
目標を紙に書いて毎日見える場所にその紙を置くこと。これはプロになった今でも続けていることでもある。だから、僕の寝室のドアには紙に書いた今年の目標が今も貼られている。
後悔先に立たずですね。これを読んでいる中高生のあなた、ダメ元で学校で一番可愛い女の子に告白しましょう。違うか。
②絵を描く
画家をしていたわけではありませんよ。先日友達と話していて「カズキは将来の絵を描いているんだね。」と言われたのが嬉しくて、この題にしました。
大学時代から、将来海外でプレーするなら言葉が話せないといけないと思い、大学の授業が早く終わる日を見つけては、英語とスペイン語を学んでいました。
英語は、知り合いの紹介で語学パートナーをみつけ、お互いに1時間半ずつ英語と日本語を教え合い、スペイン語はメキシコに住んでいた日本人の方と個人契約して一回2000円で溝ノ口駅近くのカフェで毎週教えてもらっていました。今考えると、トレーニング、授業に加えて教職課程、さらに二言語を学ぶのは僕のキャパだとかなり無理に近いことでした。
スペイン語はもちろん英語も習得には至りませんでしたが、今になって振り返るとドイツに渡ってからの英語ドイツ語習得の礎になっていました。
プロになれないかもしれない、言葉を習得できないかもしれない、〜できないかもしれない。という想いはありましたが挑戦をしないこととは違うと思います。
今でも将来の自分のなりたいイメージを持って、それに向かってできることからコツコツやることができています。
なんでそんな風に考えるようになったのか。ある経験による気付きが大切だった気がします。
大学2年の全国大学サッカー選手権で日本一になりました。日本一になれる人間は一握りのはずです。
「サッカーで一回でも日本一になったら、将来子供に自慢できるなあ。。」
(いまだに独身街道ですが、)そんな夢を実現させた瞬間で、ある意味長年切望していたことでした。めちゃくちゃ嬉しかったです!!でその日はチームメイトと喜びを爆発させました。
でも次の日起きて、「こんなもんか。」と思ったのを覚えています。
周りの世界が劇的に変わる。そこには何かがある。と目指してきましたが、何も変わらないんですね。
そこに向けて毎日毎日少しずつ努力を積み重ねてきたその結果なだけで、僕に残ったのはトレーニングで培った身体とボールをコントロールする技術でした。※
結果は、夢や目標を描き続けたことへのご褒美みたいなもので価値があったのは、「描き続けた」という部分でした。
(※その後のプロの世界は結果も求められます。)
③視野を広ける助言
大学4年の12月に、自分自身の将来の選択が迫られていました。
僕にはJクラブかブンデスクラブに加入するかの2つの選択肢がありました。
Jクラブへ加入→やりたいサッカーが出来るかもしれない、即戦力で使われるかもしれない、将来海外移籍のチャンスがくるかもしれない、給料が新卒初任給より高い。
ブンデスへ加入→日本の大学からの移籍でナメられる、言葉がわからない、友達がいない、住む場所が決まっていない、ロングキック主体でやりたいサッカーではない、給料が新卒初任給より低い。
条件だけを見たら、Jクラブへ移籍する方がステップアップ的にはいいかな、どうかな、、Jクラブへの回答を待たせていたこともあり、他大学の選手へのオファーも滞ってしまって多方面に迷惑をかけていました。
大学最後の大会も始まり、また教職課程や授業で単位が取れて無事に卒業できるかの瀬戸際でもあり、色々とプレッシャーを感じていました。
誰かに相談するタイプでもないので、答えが出ないまま、一人で悩んでいました。いい加減答えを出さないといけないのに、決断できないでいました。
そんな中、たまたま実家に帰る機会があったので、思い切って海外経験のある母に相談してみました。
すると想像とは違う答えが返ってきました。
「私の仕事は、あなたを一人前の大人に育てること。自分で仕事をして生きていってくれたらなんでもいいわ。サッカー選手じゃなくてもいいんじゃない?」
びっくりしました。と同時になぜか嬉しかったんです。
てっきり親はプロになることに期待しているものだと思っていましたし、高校サッカーや大学リーグなど観に来てくれるのでサッカーが好きなものだと思っていました。
でも少しして妙に納得しました。当たり前のことを言っているし、子は子ですよね。同時にプレッシャーがスーッと消えていきました。
プレッシャーって自分が感じるもので意外と周りは気にしていないものですよね。
その助言から、抱え込んだ必要のないプレッシャーを一旦下ろして、シンプルに海外にチャレンジしたい自分の想いを選択することが出来ました。
それから僕は、選択を迫られるときには多くの立場の違う人の考え方にも耳を傾けるようにしています。広い視野で考えるためにも。
まとめ
大学の監督が、あるミーティングで
「男は35歳まで夢を追っていい。」
と言っていたのを想い出します。18歳の自分には意味のわからないことでしたが、今なら少しわかる気がします。僕もあと7年で35歳になります。
その頃までサッカー選手が出来ているか、浦和レッズでプレーさせてもらえているか。未来はわかりませんが、理想を描きながら、時に広い視野を持ってチャレンジを続けていければと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。これから時間を見ながら浦和レッズでの活動と海外移籍のことを、それぞれ書いてみたいと思います!