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二つの山手地区 / 最後の東京帰省日記 ⑩

前回の続き

 最終日の朝、横浜に向かう。目的地は「山手地区」。ここは、幕末の横浜開港後、欧米の人々が多く暮らした旧外国人居留地である。横浜と、現在自分が暮らす長崎とは、まちの成り立ちに共通点がある。長崎も、幕末に開港し外国人居留地が作られた。長崎の歴史と文化に触れることで、翻って自分の地元、横浜の山手地区にも興味が湧いたため、今回訪れることにした。

 港の見える丘公園の入り口から、散策を始めた。空はやや曇っているが、時折、夏の日差しが刺す。公園の階段を登っていると、汗が吹き出してくる。この辺りは「フランス山」と呼ばれるエリアで、かつてはフランスの方が多く暮らした場所らしい。どうやらフランス山の他にも、近くに「アメリカ山」と「イタリア山」という場所があるようだった。ちなみに、長崎には「オランダ坂」という地名がある。地名一つとっても、その背景にあるストーリーに違いが感じられて面白い。長崎では、鎖国中も出島を通じて200年以上に渡りオランダとの交流があった。それもあってか、幕末、長崎の人は、長崎開港後に来た欧米人のことを親しみを込めて「オランダさん」と呼んだらしい。そのため、欧米人が多く通る居留地の石畳の道を「オランダ坂」と呼ぶようになったそうだ。そんなことを思い出しつつ、横浜の地名には、どんなストーリーがあるのだろうかと思った。

 横浜と長崎の山手地区(旧外国人居留地)で感じた違いは、大きく二つあった。一つ目は、建物(洋館)の作りである。横浜の場合、関東大震災の影響で、洋館が新しくなっている。長崎の洋館とは雰囲気が結構違う。建築関係のことに疎く、うまく説明できないのだが、横浜の洋館は「壁が厚い」感じがする。二つ目は、背景にある歴史である。横浜の外国人居留地には、外国の軍隊が駐留していたとの、案内板の説明を読んだ。幕末、攘夷に燃える志士たちからの襲撃に備えて、軍隊が駐留していたものと思われる。確か、長崎の居留地には、軍隊の駐留はなかったと記憶している。長崎の場合、オランダとの長い交流があり、地元人は、欧米人に対して心理的距離が近かった。そのため、江戸や横浜で欧米人の襲撃や領事館の焼き討ちなどが頻発するのに比べると、長崎は穏やかな雰囲気だったらしい。

 山手地区をしばらく散策するも、次第に暑さにへばってしまい、半分くらい巡ったところで、中華街方面に向かうことにした。この後は、中華街を軽く散策して、適当に横浜を巡ろう。

 次回に続く

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