愛しさは胃袋で愛せるか
自分の愛する存在の遺体を食べられますか?
そんな質問と同時に現れるいくつもの調理法たち。
粉末にしてカプセル状。焼いて立ち上る煙を吸い、灰を呑み下す。蒸気で生まれた電気でお湯を沸かす。土になったそれを食む。土から生まれた野菜を噛み締める。
何をすれば、愛する存在は自分と同一化できるのだろうか。
END展に行ってきた。
二子玉川駅。ずっとニコタマ川駅だと思ってたそこで、死に直面してきた。
いくつもの選択肢をまざまざと見せられ、最後に出されたのはこんなアンケート。
「自分の愛する存在の遺体は、以下のどの状態だったら食べられると思いますか?」
選択肢は「遺体・灰・作物・動物・熱・どれも食べられない」の6つ。
私はーーーにした。
死者はそばにいるか。老いるとは。死後の世界は存在するのか。生きるとは。死ぬときに後悔しないようにしたいことはあるか。死ぬまでにやってみたいことは?
いくつもの明確な「死」と、そこに至るまでの「老い」についての展示が自分の思考をフル回転させてくる。
死ぬまでにやってみたいことがアンケートで聞かれていた。
何を書こうかと考え込んでしまった。自分は何をしたいのだろうか。
いつ死んでもいいやと、毎月自分の斎場で流す曲を決めているというのに、どうしたことか、死を目前にしたら何をすればいいのか分からなくなった。
何の具体性もない願望が書かれた横に貼った紙にはこう書いた。
「意味」を見つける。根源に触れたい。
我ながら何を言っているのか分からない。今になって恥ずかしい。
それでも、あの「死」を目前にした瞬間だけは、何かしらの意味を欲しがってしまったんだから面白い。
10分間の制限時間中に、誰かに向けて書く遺書が展示されていた。
刻一刻と時間が進むなかで綴られる遺書。
突然の死を嘆く謝罪に、死を受け入れ気丈に振舞う友人宛のちょっとしたお手紙のような形で描かれる別れの挨拶。
「先立つ不幸」も「お先に!」と笑い飛ばし受け入れられる死も、与えられる「死」は平等に違いない。
そして、仮に愛する存在に先立たれるとしよう。
自分の中に存在を閉じ込めることを、自分は止めるのだろうか。勧めるのだろうか。
髪の毛は消化がされないらしい。
この先確実にやってくる我が家の犬の死を、果たして自分は落ち着いて迎えられるのだろうか。
展示を見ながら、死んだペットを自分は食べられるのだろうかと考えてしまった。
生きていた。過去形の肉を前に、自分はどんな顔をして送り出せるのだろうか。
多分先に逝かれる親の死を、自分は受け入れられるのだろうか。
早々に逝くはずがない愛する存在の死を、自分は認められるのだろうか。
そして自分が死ねば、どれだけのことを周りの人たちに悩ませることになるのだろうか。
豚カツで言えば脂の多いヒレくらいの肉質だろう。
足はまぁまぁ美味いはずだ。二の腕も美味いだろう。
でも、どうせ火葬で骨以外残らず燃やされるだろう。
残った灰を見て、遺した人たちは笑っていてくれるのだろうか。
自慢の斎場プレイリストを去り際に聴いた参列者は笑っていてくれるのだろうか。
自分の死について、そして誰かの死について、あとは知っている誰かの死について。
死にたいわけでもない。そして、死について真摯に考えたつもりでいただけの今日。
それが分からないうちは、まだまだ死ねないなぁ。なんて。
死ぬ前にやりたいことを見つけるまでは、まだ死ねない。
死ぬ前にやりたいことを見つけても、それを達成するまではまだ死ねない。
どうやら、世界はまだまだ自分を生かしてくるらしい。
それならまぁ、生きてやるしかないのかなぁ。生きないと。
とりあえず生きよう。話はそれからだ。死ぬ時の答え合わせに向けて、クイズ番組で最初から答えを分かっていたかのように「やっぱそうね!ね!」と神か仏か誰かにダル絡みできるくらいには生きないと。
もうちょっと、生きることにします。それと、もうちょっとまともに生きようと思います。
6/8まで二子玉川駅近くのギャラリーホールでやってるので、よかったら。カジュアルに死生観を考えるきっかけになる。かも。
というわけで久しぶりの1日2note。
ではまた明日。