赦すかどうかを決めるのは被害者
オリンピックが始まるまでにまさかの形で「クールジャパン」が次々に明らかになっていて、正直ここまでくれば最後まで無茶苦茶なことばかり出てきてくれる方が面白いのではないか?みたいなところにまできています。
オリンピックの開会式などに関わる人が過去に障害者をいじめていたことを自慢していたニュースが流れてきた。
ちょっと調べたらやっていたことがエグくて引くどころか嫌悪感を覚えるレベルの行為で、その人の作った曲で好きな曲があった自分にとっては感性を評価していたはずなのにいつの間にか品性を評価せざるを得ないことにまで発展してしまった。
地上波でニュースになっているかは知らないけれど、ニュースサイトではそれなりに大きなトピックとして流されていて、例の如く人権派団体がTwitterでハッシュタグをつけたデモをやっている。
最近はいじめ系の問題をnoteで扱う頻度が高い気がしている。多分先週の日曜日もそんな感じの記事を書いていた記憶がある。
で、それを含めてどう感じたか?ということが今回のnoteの内容になってくるだろう。
どう思ったか?
誤解が生まれるだろうけど、むしろ今のタイミングなら最後までその人を担当から下ろすべきではないと思っている。
例え誰かをいじめていて、それを武勇伝のようにいい歳こいた大人が周囲にひけらかしているくらい品性が欠けた人間であっても、多様性の祭典に関わることができるのだ。ということをオリンピックの歴史に刻み込めばいいのだ。
障害者を虐げ、それを喧伝するような人間であっても平和の祭典に関わっていいのだと宣言しつづければいい。
これが日本だと世界に見せつければいい。
自分はオリンピックをすればいいと思っている。いや、厳密にはもう今更中止なんて絶対に出来ないのだからさっさと終わってくれという方向のネガティブな肯定派だ。
今日もボランティアスタッフが女性に暴行をしたニュースが流れていた。
頼むから早く終わってくれ。頼むから。
で、書きたいことはこんなことではない。
いじめられた側にとっての謝罪の意義についてを考えていきたい。
過去にいじめられた経験がある人なら分かると思うけれど、やった方が自分のしたことを忘れても、やられた側は自分がされたことを忘れることはないだろう。
ましてや、今になってその風化した記憶を上書きされることは問題外だ。
どちらかといえばやられてきた側の人間である自分からすると、今更謝ってくる意味は何なのか?ということ。
過去に作った自らの汚点を今更謝ったことにして帳消しにできると考えるその浅はかな考えが気持ちが悪い。
人の人生を狂わせておいて、許してもらえるだろうといった体で謝りにくることがおかしいだろう。
頼むからこれ以上自分の人生に干渉してこないでくれと祈る被害者たちの気持ちなんざ絶対に加害者は理解しない。
許されるはずがないのだ。仮に許されたとしても、赦されることはないだろう。
この謝ったからもうおしまい。の考え方はとてつもなく傲慢で、そして品性に欠けている。
ごめんなさいの握手は両方に非があった場合だけだろう。
どうして謝罪を受け入れなかった側が責められないといけないのか。
昔、あることがきっかけで自分に危害を加えてきた人のことは今でも許していない。
当時は学校で指導がされたのか、渋々ながら自分に対して謝ってくるヤツの顔は今だって思い出せるだろう。
その謝罪を自分は受け入れなかった。
「謝られたところでどうにもならないし、自分の負った傷が消えるわけでもない。勝手に謝って満足しないで欲しい。自分がやったことを忘れずに生活して欲しい」
そんな感じのことを言ったような言わなかったような。
するとどうだ、いつの間にか自分が「人の謝罪を受け入れない器が小さなやつ」に変わり果てた。
加害者が一転して被害者になり「謝ったのに許してもらえなかった」と言い始める。
それからは「謝罪=誠意」の構図が自分の中に出来上がった。
誠意はなんだっていい。大人の世界なら慰謝料としてカネが表せるだろうし、モノであったり行動であってもいい。
目に見える形で罪を背負い続けることでしか、人は赦されない。そんな息苦しいことを小学市や中学生で学べばそりゃあこんなにスレた子供になるのは当たり前だろう。
大人になるのは簡単だけれど、中身がガワに追いついているかと言われるとそうはいえない。そんなお年頃。
去年の夏に『許された子供たち』という映画を観た。
小学生がボウガンでいじめていた同級生を誤って射殺してしまったが、無罪になって法的には許された話だ。
許されたといってもそれは法的に許されただけであって、社会から許されたわけではない。
転校しても、人をいじめて殺した事実は消えない。それがいつすれ違う他人に見つかりそして広げられるか、死んだ人間に対して謝ろうと遺族に謝ろうと、それが受け入れられるわけでもない。
被害者の執念と加害者の呵責が混ざり合うストーリーに、当時観ながら撃たれた場所と同じ場所に鈍痛を覚えていたことを覚えている。
あの映画は決して加害者に救済を与えるといった話ではなかった。絶対に許されることがないことをした人間に対しての生き地獄と、あるかないか分からないほどの救いが共存する苦しさをひたすら描いている話だった。
絶対に許されることがない過ちに対して、どこまで真摯に受け止めることができるのか?どこまでその罪の意識を持ち続けることができるのか?そして、どれだけの間苦しんだ被害者の現在の安寧の日々を壊さずに償い続けるか?
人をいじめたことのある人でこの記事を読んでいたのであれば、当時の人に今から接触して謝ろうだなんてふざけたことを考えずに、いつ訴えられるか分からない恐怖に震える夜をお過ごしください。
そしていじめられて今でも傷を抱えている人でここまで記事を読んでくれたのであれば、当時のことを思い出させるかもしれないことを読ませてしまいすみません。まだ苦しい記憶が残っているのであれば、今からでも遅くはないので一度訴訟をするなり考えてみてもらえると少しはマシになるかもしれません。
最後に、いじめてもいじめられていなかった人へ。そのまま誰も傷つけずに生きてください。そして、よければ道端で苦しんでいるかもしれない子供がいれば助けてあげてください。
おこがましいかもしれませんが、今日のnoeはこんな感じで終わろうかと。
ではまた明日。