100日間のシンプルライフを観た
2世代前の人たちが持つアイテムの数は50個、1世代前の人たちが持つアイテムの数は400個、そして現代の自分たちが持つアイテムの数は10000、1万を超えるらしい。
そんな物欲や商品飽和社会において求められるものは、いかにしてその商品を買うか、購入時の自分のテンションの移り変わりとなるのだろう。
最近公開された映画『100日間のシンプルライフ』を観た。
酔った勢いで100日間を持ち物を一切持たないまま過ごし、1日ごとに1つだけ持ち物を追加できるルールのもと、それに耐えられなくなった方が負けという賭けに酔った勢いで挑んだ2人の男の生活が描かれるストーリー。
なぜモノを持ちたくなるのか、幸せとは何か、どうすれば幸せを感じることができるのか。などといったことについて拙くとも誠実に向き合う2人の男達の生活を眺めるだけなのに、どうしてここまで考えさせられてしまうのか。
モノを買うから幸せになるのか、それともモノを買った後の自分の姿を想像して幸せになるのか。幸せの定義そのものについて考えさせられる瞬間を何度も考え、そして葛藤する。そんな瞬間をこの映画では何度も目にする。
モノを持たないという生活。失って初めてその大切なモノを実感する。大切な人を亡くして初めてその人の愛おしさに気づく。そんなテーマではなく、モノを持たないことによって生まれる「自分自身が行う選択」という本来なら気づくことがなかった行為に愛着を覚えるような話が続く。
生優しい美徳や道徳じみた話ではなく、1日ごとにしか新しくモノを手に入れることができなかった、1日目を裸で過ごした男達の切実な雰囲気が物語の普遍性をより高める。
当初はコメディと思って観た映画がドラマチックだった。みたいな展開がここ数日の自分には多すぎてむしろそれを求めているのかもしれないと考えさせられることが多い。
昨日も仮面ライダーの映画を観に行って、不覚にも何度か泣きそうになった。
最近親子愛とか子供の成長とかを描いた狙って描いていない感動ものに弱いんですよね。マジで。
今日のこの映画ではこんなことが言われた。
人生は水に似ている。掴んだと思ったらいつの間にか手からこぼれ落ちている。
確かにそうだ。
デッドプールでも言われていた。人生において幸せな瞬間はCMに似ている。それ以外はすべて苦しい展開。
そんな感じのことを字幕で書かれていた記憶があるような、ないような。
幸せってなんなんでしょう。
満たされていればそれが幸せという人もいるだろうし、満たされていても潜在的な虚無によって幸せだと感じられない人もいる。難しい話だ。
今日だってお仕事の関係先の方との忘年会に参加して、美味しいご飯とお酒をしこたまいただいた。それを幸せと思う瞬間もあるし、時折それが虚しいと感じてしまう自分もいる。
一体何が幸せなのだろう。モノに溢れた毎日を過ごし、それでも満足をしていない自分は何をすれば幸せだと社会一般的に解釈されるのか。
少なくとも今の自分は心から幸せだということはできないだろう。
じゃあ幸せって、一体何なのか。そんなことを最近考えるのです。
最近少し心を病んでしまっていて、どうにも気持ちがノラない。
それでもこうやって当たり前の作業を当たり前にこなすことでやっと平穏を保っている。
ルーチンワークは毎日の安定したパフォーマンスを出すために存在するのではなく、毎日の安定したパフォーマンスを嫌でも
継続するためのメソッドなのかも。知らんけど。
そんなわけで今日はこの辺で終わっておきます。明日も何かしら書きますね。
ではまた明日。酔っ払いのnoteにお付き合いいただきありがとうございました。
おやすみなさい。今日は久々に山崎を飲みました。美味しかったです。
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