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もう竹槍を笑えない
マスク会食を超えて、もうすぐ「うちわ会食」が始まるらしい。
それを止める人はいなかったのだろうか。
科学や通説が伝わらず、現場や上層部の謎理論が通達される現象を昔教科書で読んだ。
そう、竹槍で米兵や戦闘機を倒す訓練をする戦時中の光景だ。
当時も反対をしようとする人はたくさんいたはず。それなのになぜか強行された。
贅沢も敵だったし、金属は差し出さないといけなかった。
それなのにどうして誰も文句を言わなかったのか?
これは想像だけど、文句を言っても「仕方ない」と思って諦めてしまったからだからではないかと考えた。
まだそれを笑えるだけマシな時代に生きているのかもしれない。
その理由はこのご時世で学んだ。
どう頑張っても、「仕方ない」
今こうやって頑張っていてもどうにもならない。自分たちの手の届く範囲でできることではないことに対して、考えることが無駄に感じてしまった時点でもう終わりなのかもしれない。
では、そうなってしまうのはなぜか。
直接的な結果として自分たちのもとに返ってこないからではないかと推測している。
外出自粛をして手洗いうがいもして、マスクをつけて行動している人にとって、今のこの感染状況は徒労に感じるだろう。
そして感じるはずだ。
自分たちはこれだけやってるけど、どうして改善されない? どうして報われないんだ?
これでまだまだ頑張らなければと思っていられるだろうか?
そんな状況ではもう何があっても、「受け入れる」ではなく「諦観する」の域に入ってきているのではないかとすら思わせる現在。
そしてこの前どこかの県で、うちわを使って会食をするよく分からないことを県主導で始められるらしい。
そろそろ限界を感じる。
というのは、体力的な限界ではなくて精神的な限界。
やってもやってもどうしようもない、そしてそれに見合わない現状。
大学はこれだけ感染者の数が多い上に人の動きが激しいのに対面授業を強行している。
これについては正直なんで??というのはあるし、特別な理由がない限りウェブでの参加が認められないというのはいかがなものかと思っている。
絶対に対面でやる!と言われていたから教室に行ったのにそこではプロジェクターにzoomの画面が映っているのを見る時間だったのはもう笑わせてもらった。
ならzoomでええやん!?と思っている。これをzoomで受けるための特別な理由を考え続けている。いっそ身内に病気になってもらうしかないのではないかと思っているくらいだ。
そうなってくると、もう竹槍を笑えない。
そのうちはちゃめちゃなトンデモ非科学インチキ科学でコロナを倒すようなことになるのかもしれない。
むしろ楽しみになってきた。
これからどうなるのやら。もう自分の行動では変えられないものに変わっている以上どうしようもできない。
それでも、少なくとも自分はどうしようもなくないままでいられたらと思う。
まぁ、もうはしゃぎかたを忘れてしまっているから自粛に対してなんとも思えなくなってきたのもあるんだけど。
それでも、観光地は逃げないと言われていたけど少しずつ観光地は滅んでいるらしい。自分が行くまで持ち堪えてほしいものだ。
なんか今日の記事もしっくりこない。もっとそれっぽいことをかけると思っていたんだけどなぁ…
ではまた明日。