京都に移住した水俣病患者のはなし
患者のAさんは2年前、相思社を訪れました。アポなしでしたが、二時間の間、話を聞かせてもらいました。帰られたあとも、「京都にきたら、絶対に寄ってな」と言ってくれて、その口調には優しさが滲んでいて、12月21-24日の関西出張にあわせて、Aさんを訪れることにしました。
待ち合わせは最寄駅。再会し、握り合った手を上下に振って喜びました。Aさんは、近くのファミリーレストランに案内してくれる道中、ポールやバス停やドアや、いろんなものに、ぶつかる、ぶつかる。普段は自転車に乗るAさん。「この前ここで、自転車のままポールにぶつかってな、倒れて、救急車が呼ばれて騒ぎになった」と笑いながら言いました。首を大きく左右に動かして周囲を確かめることから、視野狭窄があるのだろうな、と思いました。エレベーターに乗ると、じっと見つめられました。「目ん玉の、きれいかね」と言われドキドキしていたら、「自分はね、片目の視力がまったくないの。あんたは目の玉のきれいかね」と言われて、なんと返したらいいか分からなくなりました。
お店に着くと、お連れ合いが待っていました。Aさんは、年が30歳以上離れた私を指して「うちの後輩や」と言いました。Aさんと私は同じ小学校を卒業しています。お土産に持ってきた水俣の「桜野煎茶」を渡して雑談をしながらの軽い朝食を終え、さあ帰ろうと思ったらAさんが、「じゃあ、家に行こうか」と言います。「家ですか?」と尋ねると、「自分が、どんなところで、どうやって暮しているかを見ないと、自分のことは、分かってもらえないでしょう?」。私は胸を掴まれた気持ちになりました。
家に向かうバスを待っている間、お連れ合いが「この人、水俣やから、結婚には大反対されたんや」と言いました。その言葉に相槌を打ちながら、Aさんを見ると、Aさんはそっぽを向いていました。バスに乗ると、後ろに座ったAさんとお連れ合いが、ここで買い物をするんだ、とか、この病院で何の治療をしているけど医者からの扱いが悲しい、とか、ここで働いていた頃に、、、とか教えてくれました。バスの中で、Aさんの水俣病症状を、「普通とは違う」、「理解できない」と訴えるお連れ合い。水俣病の原因と症状について解説をしながら、この方の相手を理解したい、でもできないという状況は、大変だっただろうなと思いました。
家に着いたらAさんは、「どうや、散らかっているやろう」といいながら、ご自身の話を始めました。
Aさんは、漁師の家に生まれ、幼いころから下の子を背負いながら漁場で働きました。大釜でさなぎを炊いて魚の餌を作りました。長い竹のさおに等間隔に垂らした20本の糸の先のギャング針に餌をつけました。そうして船が出るのを見送り、父ちゃんたちがボラをめいっぱい獲って帰ってきたら、今度は魚の仕分けを手伝いました。母ちゃんが魚をめご(天秤)に入れて、丸島まで売りに行くのを、小さいきょうだいを背負ってついていきました。赤ん坊が泣き出したら、おろして母ちゃんの乳を吸わせ、おしめをかえてやりました。だから、学校にはほとんど行きませんでした。「そのうちに、きょうだいのが目が見えなくなって、歩かれなくなって。母ちゃんは心配して心配して。自分もね、体がおかしかったのよ。でも言えんかったね。きょうだいが病気になるわ、父ちゃんの仕事はなくなるわ、自分の体はおかしなるわ。心細くてな、不安でいっぱいやった。そのあとは、大阪に出て就職してからも、周りから、水俣のことでずいぶんやられたよね。でも働かないとあかんでしょ?」。
それから、小学生の頃から始まった手足のしびれや体の痛み、震えやからす曲がりなどの症状を、ひとしきり聞きました。きょうだいは自分が小学生の頃に発症をして認定を受けているけれど、ご自身は母親に心配をかけまいと我慢して我慢して、何の補償も救済も、受けず、病気を抱えながら、生きてきました。お母さんが亡くなった時期と、Aさんが声を出した時期が重なるのは、何か意味があるのだろうかと思いました。
結局、Aさんの言葉を、聴くことしかできませんでした。帰りに、「淀川で釣りをするのが楽しみで」といって、釣り道具を見せてくれました。生き生きとしたその顔を見ながら、袋の海を思い出しました。
帰りには、バス代がかかるからいいというのに、駅まで送ってくれました。そして、再会したときと同じようにして手をつなぎ、上下に振って、また遊びにおいでねと言いました。
その前後には、目的の仕事を果たせました。今回は水俣の友人、奥羽香織さんとふたり旅。彼女をはじめ、これまでの十年間で関係を重ねてきた沢山の仲間たちに支えてもらいました。普段は聞くことばかりしているので、水俣病事件に関わる経験を聞いてもらうことで、自分の活動を客観的に見ることができました。
お越しをくださった皆さんは、懐かしい方と初めてお会いする方がどの会場も半々ずつ。皆さんにお会いできて、話を聞いてもらって、嬉しかったです。
一日目の同志社大学では、水俣に通い続ける小野文生さんが授業に招いてくれました。最初の90分は「みな、やっとの思いで坂をのぼる」を読んでさまざまな感想をもった学生さんたちとのセッション。どのようにして水俣病を自分のものにしていくか、悩み苦しんでいました。その様子が尊いものに見えました。8人の学生さんたちそれぞれの感想にコメントをしていきました。次の90分は公開授業。小野さんが20分水俣病について語りました。話を聞きながら、私は会場の一人ひとりの顔を見つめました。その顔が個として見えた頃、緊張は、きれいに消え、その分の距離感も、なくなってしまったことが不思議でした。小野さんの哲学的ともいえる問いは難しく、分からないこともあったけど、分からないことは正直に伝え、また、難しくとも、答えは絞れば出てくるということが分かりました。水俣病の認定制度やそこで求められる証拠とその対岸に存在するような患者たちの「証言」を残すということ、そういうことが話の中心になったように思います。新聞記事にも詳細があります。
二日目のカライモブックスは、同世代の奥田夫婦が店主をしています。水俣病の本ばかりを扱っている古書店には素敵な人たちが集います。奥田さん夫婦のもつ水俣への愛や畏れに、私も刺激を受けてきました。五年前、「水俣病を知るにはどんな本を読んだらいいですか」と聞いた出版者に「ありません」と答え、では誰が書くべきかとの問い「永野三智です」と答えたことから、「みな、やっとの思いで坂をのぼる」がうまれました。本を出すことは怖かったけど、この夫婦の存在は、だから不可欠でした。わたしは「chio」という子育て雑誌に連載をもっていますが、妻の直美さんは、その編集もしています。この夫婦自身の「出会い」からトークは始まりました。水俣病の記憶の継承や、水俣病歴史考証館にある「もの」の持つ記憶。世代交代(上の世代から私たち世代へそして、次の世代へ)、そして運動を継続させていく難しさが話の中心になりました。世界平和は家庭不和。相思社に勤めて10年、ようやく最近「自分が幸せになっていい」と思うようになりました。そうしながら、運動を続けてよいのだと。
途中、こどもデモに参加しました。初めての路上でのデモでは、こどもと親、それを囲む人たちが必死になって、「こどもを守ろう」と訴えていました。メガホンを持っていたのは、西郷さんという小さいこどもたちの親で、なんと一日目にお世話になった小野文生さんのゼミの後輩でした。
三日目の牧口誠司さんは、永野が本を出すからお祝いしようと最初に言ってくれました。それでこの出張が成立したようなものです。「溝口(秋生)先生の一周忌(命日)に本を出せてよかったね」といってくれた言葉も嬉しかったです。大阪で高校の教員をしています。でもそこには留まらず、視野広く、さまざまな世界に飛び込んでいきます。そのネットワークの広さには驚きます。そのなかには水俣もあります、30年も前に、飛び込んでこられたようです。牧口さんというと、私の中では相思社機関紙「ごんずい」での職員との往復書簡。理路整然と職員の意見に立ち向かっていく姿は印象的でした。私は疲れがピークで、若干の興奮状態の中でトークがスタート。立ち止まる、ということを忘れていたように思います。会場に声をかけたり、突っ走ってしまったり。牧口さんは、いくつもの質問を準備していただいていたのにも関わらず、独壇場のようになってしまったことに、後悔をおぼえています。出張先ではしっかり休む、眠るを心がけ、余裕をもたねばならないと思います。
行く前は必死で仕事を片付けて出かけたけど、帰ったら、まさに飛び込むようにして、患者さんたちがやってきました。また日常が戻ってきた。というか、私が戻った。変わらずに迎えてくれてありがとう水俣。
昨年も沢山の方にお世話になりながら、一年を越すことができました。本当にありがとうございました。色々と不義理をしてしまっていること、ごめんなさい。これに懲りず本年もお付き合いをよろしくお願い致します。
正月は、超貧乏旅行をしました。このために、年末に頑張ってきたのです。家族の進むべきと思う路についての話を聞き続けました。
年明けは、患者の人からの電話や来訪、考証館の来館が多かった!話とは一方だけで成立するものではないなと、新年、改めて思いました。相手の心を想像しながら必死で話を聞いていたら、金曜の夕方には、ばったん。三連休は、私のためだけに時間を使い、眠り眠り眠り。今ごそごそと起きだして、掃除をして布団を干して洗濯をして、家族のために沢山の料理を作り、それから12月の出張報告をまとめようとしています。
明日から三日間は北九州、帰ったら御所浦島で調査、日曜日から三日間は東京、次の週も東京。患者さんや研修員の方たちに同行します。
今年も、どんな人生に出会っても、共感と尊重を忘れずに、安心して迷惑をかけあえる社会を目指し、「私は、微力だけど無力ではない」(長崎の高校生平和大使)の言葉を大切に、歩いていきます。今年も一緒に生きましょう。