韓国は蔚山の斗東小学校で講演
韓国は蔚山の斗東小学校で、講演をしてきました。現地の「蔚山ジャーナル」の]이동고記者の記事が掲載されました。翻訳機にかけたものと、綴った日記を掲載します。→【水俣病センター永野三智さん、斗東の子供たちと会う】
【蔚山ジャーナル= 4日、蔚州斗東小学校で日本人の特別な講演が行われた。講演者は、日本の水俣病センターソシエテ・シャー(相思社)の常任理事である永野三智氏。 「水俣の人々の話に耳を傾けてください」が講演テーマであった。この席には、将来共生研究所が設けた学生だけでなく、学校側の配慮で親も講演に参加した。
水俣地域は、山と海を挟んでいる美しい漁村であった住民たちは、海の魚を取って生活した。 1908年チッソ(Chisso)と呼ばれる肥料を作る工場が建設される時には、大きな問題はないに見えた。しかし、事業を多角化して1932年の化学薬品であるアセトアルデヒドを作りながら、問題が生じた。硫酸水銀を触媒として使用して、メチル水銀が含有された廃水を河川に流したことが水俣の住民にとっては悪夢の始まりだった。
その後に起こったことは、住民の健康を脅かす汚染問題をより育てた。奇妙な症は無視されたし、国とメディアが企業の方で、これを隠蔽することが続いた。魚行商をしていたおばさんの子供は障害を抱えて生まれ、自分が売った魚を食べて、住民が障害を持つようになった。このおばさんは本人も症が現れ、人々に間違ったことを主張して自責感に50年も本人の病気を治療していなかった。新潟でも同じ症状を持つ患者が発生した。二つの都市が連携して国家を相手に自分たちの被害を公害と認め受けようとする努力が再起動された。
市民団体「水俣病センター」で活動している永野三智氏は、「私訪れる人の病気をよくすることはできませんが、近くにありますので、話は聞くことができる」とし「知ることは、その人を愛するようになる第一歩だ非常に重要なことだと思う」と語った。また、「今後も継続して水俣病にかかった人の話を聞こうとする」という言葉で講演を終えた。
講演後一時間真剣に聞いていた学生の質問が殺到した。 「今でも水俣病がいるかどうか」を尋ね、永野氏は、「水俣の海に排水汚染がなくなったか、50年が過ぎ、今は水俣病になる人はありませんが、その後も5年間は、汚染された魚がいて、水俣病の最も幼い人が45歳くらいになる」と答えた。
「独島はどこの国の領土だと思いますか?安倍首相をどう思いますか?」というやや敏感な質問には、「どのようにすればいいですか?難しいですね」と困り果てた。永野氏は、「安倍首相は弱者に非常に厳しいことのために、私たちは人間だから弱い人も助けてくれる政治をしなければと思う」と語った。
参加した親は「水俣病にかかった親子の話を聞きながら、親としても、胸が痛くて悲しかった」とし「資本主義社会で経済活動も大変重要だが、国民が存在しない国のものすごい経済活動や成長がどのような意味があるのか? 」と反問した。
他の親は、「普段環境についての講演を多く聞いた。今回の講演は、非常に色違った」とし「水俣の話を聞いたら、蔚山の新古里住民が古里原発の放射能被害に病気になっていきているのも、政府の傍観がどうしても同じだったか心がとても痛かった」と述べた。
「韓日間の問題が悪化の一途を辿っているが、日韓の民間交流は、お互いを理解するのに役立つ」という意味を集めて、斗東小学校で行われた水俣病センターソシシャーの永野氏の素朴な講演は、子供たちにどのような影響を及ぼしたのか。講演章では、蔚山市内から遠く離れた斗東まで来て講演をしてくれた永野さんの温かいおもてなしの雰囲気があふれた。
※写真キャプション 日本の水俣病センターソシエテ・シャー(相思社)の常任理事である永野三智氏は斗東小学校の生徒と会う貴重な時間を持った。左が永野三智さん、右は未来共生研究所キム・ジンヒ代表。 ⓒ이동고記者
【私の感想】
11月4日(月)、蔚山の斗東(トドン)小学校の特別な配慮により、講演をしました。韓日の関係が愛と平和で包まれることを強く願う私にとってもそれは、特別なものでした。
斗東小学校は、蔚山の教育委員会のモデル校として革新教育をしており、講演はその取り組みのひとつという位置づけ。
私を学校に紹介してくれたのは、「蔚山未来共生研究所」の代表で、この学校の保護者、キム・ジンヒさんです。三年前におこさんを連れて、キム・ユンスクさんや蔚山の仲間たちと水俣へやってきてくれました。穏やかで愛にあふれるジンヒさんと相談し、講演のタイトル「水俣の声に耳をすませてください」を決めていましたが、前日に再会し、どんなにか日本との関係改善を願っているかを感じました。
講演前、小学校の周辺の美しい農村を案内してくれました。ジンヒさんはいま、その村に住み、村の人びとと移住してくる若者たちを結ぶまち作りをしています。おばあさんたちの歴史を聞き書き残しています。こどもたちの放課後の居場所づくりをしています。講演の前、村のむかしの公民館に連れて行ってもらい、昔使われていた道具や、村歩きと聞き取りをする写真を見せてもらいました。
ジンヒさんの丁寧な通訳で、水俣病の歴史、休憩、患者さんのこと、質問の流れで講演は進みました。
喜怒哀楽をしっかりと表現しながら、物語を紡ぐように話をしました。こどもたちは、ジンヒさんの通訳を聞くと、直前の私と同じ表情をし、ため息や驚きの声をあげました。休憩では、こどもたちが集まって、勉強した日本語を披露してくれました。手をつないだり、小さな質問が嬉しかったです。
次のコマでは、つい数日前にお会いした、魚売りをしていたお母さんの話をしました。二番目の子を身ごもっているときに、行商を始めた。夫が自転車で仕入れに行った魚を、しょけという竹ザルに入れて、担いで売った。自転車がバイクになって、バイクがトラックになってからは、自分でも仕入れをした。そして、次に生まれた赤ん坊が障害を抱いた。魚売りをしていた頃は、力があった。魚を食べ続けたら、手がもやもやとして、きかなくなった。こどもの頃は千人針が得意だったがそれができなくなった。手をガス台の火に入れても分からなくて、やけどをすした。トースターでパンを焼くときに熱いところに手を置いて、水ぶくれになった。鎌で手を切っても分からない。手が震える。頭が痛い。体がだるくて疲れやすい。味や匂いが分からない。そんな症状が、もう50年近く、続いている。しかし、魚を売ったことへの自責の念で、声をあげることはなかった。私が魚を売ったから、あの家に胎児性患者が生まれたのだ。私が魚を食べさせたから、こどもたちが水俣病になったのだ。私が魚を食べたから、障害を持って生まれたこども。その話を、初めて聞いた。お母さんにとっても、初めて話した言葉の数々。
質疑応答では、現在の魚の水銀値や水俣病患者の年齢、水俣は有名な場所か、日本といえば?、韓国で好きな料理は?というものに加えて、安部政権への評価、竹島は誰のものか、と多岐にわたりました。
日本といえば何ですか、の質問に戸惑い、あなたは何だと思いますかと尋ねると、「福島です」との答えでした。
そのあとの時間は、校長先生と、幼稚園や図書室や教室を回りました。図書室はお母さんたちが管理しアイディアを出している施設で、家庭的でより本が身近に感じられる作りでした。
校長先生は、普段から自分の考えを押し付けず、いつも、こどもに何が必要かを観察している人だと聞いていましたが、実際に話してみるといつも相手の目を見て話をし、熱心に聞いて熱心に応える先生に、信頼や尊敬をされるのは当然だと思いました。
昼食は、あたたかな食堂での給食(!)でした。最初はジンヒさんは労働者の飯場に連れて行ってくれようとしていましたが、校長先生のあたたかな誘いを受けることになりました。食堂は座敷スタイルで、誰も彼も、児童も幼稚園児も警備員さんも運転手さんも事務員さんも先生も、時間をずらしながらみんな同じところで食べました。トッポギやキムチ、味噌汁やおやつのような海苔の天ぷらなど、美味しいものばかり。
校長室にお茶を飲みに行ったところで、ムン・ジェイン大統領と安倍首相のサプライズ歓談、韓日両国関係の懸案は対話を通じて解決しようと話をした、というニュース速報を校長先生が伝えてくれました。
学校に到着したときも、校長先生は正門前で待っておられましたが、帰りもわたしたちが見えなくなるまで見送ってくれました。
別れ際、校長先生とジニさんが何かを話していました。ジニさんは涙ぐんでいました。車に乗ったあと、ジニさんが、来た道とは違う、紅葉のきれいな山道を通りました。きれいですね、というと、「この道はいつもは通らない、迂回路なんです。いつも通る道には、日本に対してのひどい言葉が並んでいるから、通るときに、永野さんには特に丁寧に説明してほしいと校長先生が言われました。だけどその後に、別の道を通って帰ったら見なくて済みますから迂回して行ったらいいと道を教えてくれました」と言いました。二人で同時に泣き出しました。
こどもたちと学校の先生たち、保護者のみなさんの親切に、言葉にできない感謝をいだきました。わたしたちは、国に惑わされることなく、平和な世界を作っていけます。そう思った時間でした。
写真はキム・ジンヒさんからと、先生に撮ってもらったものと、自分で撮ったもの
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