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私たちの命の綱ですたいね、海は
2014年1月14日。今日は海岸部で育った方に話を聞いた。
小学校時代、ご飯を食べたあとに友達と遊びながらの一仕事。
昼休みになると毎日のように、目の前に広がる海に貝をとりに行き、空っぽの弁当箱に貝を沢山入れて持ち帰る。当時はみんなそうやって勉強の合間に晩のおかずをとっていた。
学校から帰ると漁を終えて帰ってくるおじさんたちを待ち構え、売り物にならない魚をショケ(竹カゴ)に入れてもらった。
そんな当たり前の風景を回想し、語る。
「母ちゃんが魚やらビナ(貝)やらが好きやったけんですね、持って帰ったら喜ばしたっですよ」と嬉しそうに笑うので、私もつい笑顔になる。水俣病公式確認をまたぎ、そんな毎日は変わりなく続いていた。
「楽しかったですよ。海のものは食うてないものはなかぐらい、よう食いよりました。こまんか(小さい)ナマコば海ん水で洗って食べれば潮がきいてですね。これがまた旨か。ウニは牡蠣打ちで割って、身ばほじくれば甘みがあって旨かも旨か。あれば食えば、寿司屋で出てくるウニは消毒臭くて食えんですよ。カネも田んぼもなかったけん、私たちの命の綱ですたいね、海は」。
彼女がとったりもらったりした魚介類は、母の手で調理され、毎日食卓にあがった。子どもたちは競うようにして魚を食べる。そしてこの幸せな食卓から、水俣病が始まる。
「牡蠣打ちやビナひらいは、いつ頃まで行きよったですか?」と尋ねると、「昭和55年(1980年)頃まではずっと行きよりましたね」と答える。
水俣病事件史の中で、不知火海の漁獲や摂取が規制されたことは一度もない。公式確認の1956年からわずか一年後、政府は、企業は、学者は、その危険性を知った。しかし「食べないで」「危険だよ」とはヒトコトも言わず、事実は蓋をされてしまった。
彼女は放置を受け続けた不知火海周辺住民の一人だ。周りには認定を受けたり水俣病症状を抱える人たちがおり、彼女もまた、日々の症状に苦しむ。