今日の昼、迎えてくれた老漁師
この前の台風は、あら大したことなかったな。あたは知らんどな、八十八夜時化(はちじゅうはちや じけ)ちゅうてな。今でいう、五月一日のことたい。八十八夜時化には気をつけろち、おら、こどもの頃からよう言われてな。漁師仲間が何人も、八十八夜時化で果てたもね。波にさらわるるとたいな。だけん漁師ちいうとはな、風と波が分からなんばつまらんと。分かったっちゃ、自然相手にゃつまらんとやけん。
それに比べれば、この前の台風は、風のなんのて、なんちなかった。それよりも大きかったとはな、昭和17年の盆の16日。家も何もかんも崩れてしもうてな。漁師ばしとった父ちゃんも、そん頃にはもう果てておらんどが。おら、母ちゃんと妹たちとで、どげんして生きていったらよかかち、ほんに呆然としたもんな。
その後、漁師に弟子入りしたもんな。父ちゃんが果てるまで、漁師ばしとったろ?おら、物心ついた頃には漁師になる、ち決めとったもね。おら、13歳の漁師になったもね。
しかし修行先にな、同じ年の人間はおらんと。働き盛りはみんな兵隊に取られてな。一番近か人とも、40は離れとったな。周りはみんな徴用されていたとった(行っていた)がな。おら、一歳年の違えば、戦争行って、命のなかったかもしれん。しかし、年がいっちょ足らんもんじゃけん、命拾いしたな。
修行先でな年がうんと離れとってもしかし手加減はせんとじゃもね。網の作り方なんか習うときにな、なんで父ちゃんが教えてくれなれんとかな、こげんときはやっぱり親父から習いたかったなと思うくらいに、やっぱり厳しかったよな。教え方も。
修行に行って二年が経った頃じゃったな。修行ば終えて、おら家に帰るちなったもね。しかし、おら、戦争のことがずっと頭にあったもね。家に帰っても戦争に行って、母ちゃんに手紙が書けんとは嫌じゃち思って。自分の名前なっと、母ちゃんの宛名なっと書けるようになりたかて思ってな。
明治20年やそこらに生まれた母ちゃんが、息子に字ば教えらるばするごて。教えはきやならんもね。
だけどおら、どげんしたっちゃ字ば覚えたかち思って、雑誌ば買ってきて、それば見ながらジダに字ば書くと。浜に字ば書くと。棒きれで書いてみたり。指でなぞってみたり。しかし浜やもんやけん、ジダやもんやけん、すぐに消えてしまうとやもんな。覚えたそばから消えていくとやもんな。
かなり経ってからやったな、ノートば買ってきて、やっと、上の名前が書きなるごとなって、そして下の名前が書きなるごとなって。次は自分の住所ば書きなるごとなって。おら、今でも字は小学生以下やもね。
しかし今も網の作り方な、現役の漁師にも負けんつもりぞ。おら、網の作り方なな。
そげんするうちに戦争が終わって、水俣病が始まったもね。この海じゃ魚がとれんごとなって、劇症患者がつぎつぎ現れてな、、、
話は延々と続く。
私は今日も、どう返したらいいのか分からなかった。せめて全身を耳にして声を聞く。絶対に忘れないぞと思いながら。
何も言えず何もできずの私を、老漁師は今日も「患者の不利になるようなことはならん」と言って送り出してくれた。患者を支えているのではなく、私は患者に支えられているのだと、改めて思う。