朱き空のORDINARY WAR(32/32)
最終話「エピローグ」
夕焼けの赤が、水平線を燃やして落ちてゆく。
ゆっくりと入水する太陽は、最後の残滓でユアンを照らしていた。
飛行甲板ではまだ、多くのクルーが修復作業にかかりきりだ。応急処置で辛うじて艦載機を収容したものの、激しい攻撃に晒された痕が痛々しい。
特務艦ヴァルハラは、迫る宵闇の中でライトの光を幾重にも屹立させていた。
そんな中、ユアンは甲板の隅で海を見やる。
先程までの激戦が嘘のように、静かに凪いだ海原がどこまでも広がっていた。
「……酒を教えてやることはできなかったな。俺は……少し、楽しみにしていたんだが」
ユアンは手にしたボトルを開封し、水面へと傾ける。
琥珀色のウィスキーが、音もなく海の底へと吸い込まれていった。
推進器だけが泡立てる大洋を、死せる勇者の宮殿は静かに夜へ向かって走る。
半分ほど手向けの酒を飲ませて、甲板の端にユアンは腰掛けた。自分でも瓶から直接アルコールをあおって、火照る身体に酒精を招く。激しいドッグファイトと激戦の高揚感は、確かにまだ身体の中に燻っている。だが、今日という日はそれ以上に、疼痛に軋む胸の奥が出血していた。膿んだ古傷は、新たな傷で上書きされたままに流血している。
"吸血騎士"と呼ばれた男は、だまって献杯の酒を静かに飲んだ。
「眠れ、エルベリーデ……"白亜の復讐姫"の、その復讐は……俺の名と共に終わった。多くの血を呼び、その紅に汚れながら……確かにお前は、俺より疾く、高く……眩しく飛んだのだろう」
亡き戦友であり教え子、そして恋人だった少女に語りかける。
発した言葉に倍する想い、そのさらに何倍もの気持ちが膨れ上がる。だが、頬を濡らすことなくユアンは、黙って落日の海に語りかけた。
今、一つの戦いが終わった。
ユアンは仲間たちの復讐を果たし、全てを裏切った少女の狂気を撃墜した。
戦争の中でどこまでも狂っていった恋人は、最後の瞬間に穏やかな日々を取り戻した……ユアンにはそう思えた。協約軍が奉じる偶像として作られた少女は、ユアンに全てを見せつけ逝ってしまったのだ。
それでも、まだユアンは望んでいる。
痛みを感じるからこそ、繰り返される戦いの先に希望を見出している。
それは、エインヘリアル旅団で彼が見付けた、この戦いで唯一得たものだ。
「お前は強かったよ、エルベリーデ……だが、強いだけの哀しい翼だった。俺もいつかは、お前の元にいくだろうが……それまで地獄で待っててくれるか? 俺には、やることが……やらねばならんことができたんだ」
それだけ言って、ユアンは笑いかける。
自分でも不思議な程に、自然な微笑みが零れる。
その笑みに笑みを返してくれる者は、もういない。
自分の笑顔の寂しさにも気付かず、ユアンは再度酒瓶を傾け、残りを瓶ごと放り投げる。
戦いの去った波間に、小さく水柱があがった。
背後に人の気配が立ったのは、そんな時だった。
立ち上がって振り向くと、意外な人物が近付いてくる。
「ムツミ艦長……」
「お疲れ様でした、ユアンさん!」
「あ、ああ」
そこには、軍服姿のムツミが立っていた。
協約軍の礼服姿は、可憐な少女を飾るドレスのようだ。そこでは階級章も勲章も、宝石のように無言で美貌を輝かせる以外に意味を持たない。
軍帽を脱いで、ムツミは手にした花束の片方をユアンに向けてくる。
受け取るユアンは、頷く彼女に促されてそれを放った。
ムツミはもう一つの花束を抱いたまま、身を正して敬礼する。
凛とした立ち姿の横で、ユアンも小さく踵を鳴らしてそれにならった。
「この海に散った勇者たちに、魂の安息がもたらされんことを……それと、ユアンさん。これもです!」
「まだあるのか? これは?」
しばしの沈黙のあとで、ムツミは花束をもう一つ差し出してくる。
先程放ったものより小さくささやかで、白い花が数輪咲いていた。
それを受け取るユアンに、ムツミは大きく頷く。
「これは、ユアンさんに」
「俺に? ……そうか、俺は……"吸血騎士"は、死んだんだな」
「はい。その魂を宿していた翼もまた、この海に。……変ですか?」
「いいや、ちっとも」
「……あの子に、祈ってあげて下さい。公式撃墜スコア、427機。未確認も合わせて600機以上を撃墜してきた流血の翼……五十年戦争の影のエース、"吸血騎士"。ユアンさんを乗せて数多の戦場を駆け抜けた、あの子に」
ユアンは少しのあいだ、じっと白い花を見詰めて想いを巡らせた。
この花弁のように無垢な純白を、いつも守って飛んだ。
彼女に変わって返り血を浴びたかのように、鮮やかな赤い血の色の翼で。
己の分身であり、半身であり、その全て……相棒。
力尽きて海へと消えた愛機に、ユアンは白い花を捧げる。
ムツミは静かに手を合わせると、長い睫毛を湿らせて祈った。
さざなみを掻き分け進む艦の片隅で、少女の祈りが静寂を呼ぶ。
「艦長、ありがとう。俺の翼に祈ってくれて」
「いいえっ! どういたしました! ふふ……わたしも、一緒ですから。おんなじです!」
「ムツミ艦長……」
「わたしにとっては、全ての兵器は兄弟、姉妹みたいなものです。だから、わたしがいつか壊れて動かなくなったら……やっぱり、誰かに祈ってもらいたいから」
それだけ言うと、ムツミは軍帽を被り直す。肩に留めていたベレー帽が、たなびく蒼い長髪の上に載った。その時にはもう、ムツミはいつもの天真爛漫な笑顔になっていた。碧の瞳が空より先に、満点の星々を輝かせている。
彼女は、ムツミ・サカキは、計画種と呼ばれる強化兵士だ。洗練された強靭な個体として、遺伝子を調律された人造人間。強化被験体No.623……それが彼女だ。
ユアンは改めてムツミに向き直ると、その華奢な肩に手を置いた。
「艦長、確かに君は作為的に造られた人間かもしれないし、高価で高性能な兵器かもしれない。そう思っている連中には、好きに言わせておけばいいんだ」
「あ、あのっ! ……ユアン、さん?」
「ただ、君は……君だけは、自分で自分をそんな風に思わないでくれ」
キョトンとしたままムツミは、黙ってユアンを見上げてくる。
そのあどけない表情に重なる面影を、今は思い出の奥底に沈めておく。今は痛む胸の傷の、その奥深くへと封じてゆく。それはいつか、長い年月を経て恋と愛との化石になるだろう。そのことを掘り起こして懐かしむためにも、今は前を向く必要があった。
そして、前だけしか見えていない少女に伝えねばならないことがあった。
「ムツミ艦長、みんなが君を心配している。俺もだ。どうか……自分を大事にして欲しいんだ。君は、常人を凌駕する頭脳と肉体があっても、一人の女の子だから」
「ユアンさん……えっ! そ、それって、あの! こ、困ります!」
突然、ボンッ! とムツミが真っ赤になった。
あわあわと珍しく口ごもりながらも、背伸びして彼女は顔を近付けてくる。興奮すると喋る相手に密着してしまうのは、やっぱり彼女の癖のようだ。
「わたし、そんなこと教えられなかったです! 自分ではちゃんと大事にしてるんです、本当です! だって、わたしがちゃんとしてないと、で、でも! ええと、その、ユアンさん!」
「あ、ああ。その、なにも難しく考えることは――」
「ちゃんと考えてるんです! その、えと、うんっ! わたし、そゆの習ったことがないんです。わたしにあるのは、戦術理論や艦隊運用学、サバイバルと対人戦闘術、それくらいで。だから!」
どんどんムツミは顔を近付けてくる。
彼女の言葉が熱い吐息となって、ユアンの顔をくすぐってくる。
ぐいぐい前に出てくるムツミは、耳まで赤くなりながらしどろもどろに喋り続けていた。
「ユアンさん、めっ、命令します! わたしにっ、その……わたしに、大事にしかたを教えて、ください。わたしをっ! 大事にしてみてくださいっ!」
「……え、あ、ああ」
「わたし、大事にされてみないとわからないです! 教えてください! いいですね!」
「了解した、艦長」
「あっ……はいっ! この命令はわたしが生きてる限り有効です! ガンガン励んで下さい。戦果を期待していますっ!」
ようやく笑顔になったムツミは、もう鼻と鼻とが触れ合う距離だった。海風に髪を遊ばせ、彼女は年頃の少女のように笑う。
そして、そっと瞳を閉じる。
世界で一番強くて高価な、あらゆる兵器に勝る優れた兵士……そうあるように造られた少女は今、ただの年頃の乙女だった。
ユアンには、かつてそういう少女が隣にいてくれた。
いつも後ろをついてきた。
だから、そっと唇を重ねて伝えたい。
何度もキスして肌を重ねながら、教えられなかったことを伝えたい。
そう思った瞬間だった。
不意にユアンのポケットで着信音が鳴り響く。
「す、すまない、艦長!」
「……いーです、出て下さい。いーんです……空気、読めてないです……ならっ! こぉですっ!」
瞼を開いたムツミは、いじけるように上目遣いで睨んでから……蕾のような唇でユアンの頬に触れた。そして、真っ赤に茹で上がったまま離れる。
気付けばユアンも、上気する顔が紅潮していることに気付いた。
ムツミの唇が触れた場所が、熱い。
無性に気恥ずかしくて、慌ててユアンはわたわたと携帯端末を取り出した。いつにもまして手と指がもどかしく、普段から難儀する機械の塊をなかなか黙らせられない。
見かねたムツミが白い指を走らせ、光学映像が浮かぶ中で通話を繋ぐ。
すぐに怜悧な声が刺さるように尖って響いた。
『お忙しいところすみません、艦長。それと、ユアン中尉も』
「リンル軍曹か!? いや、これは……忙しくはない。そ、そう、艦長と一緒に戦死した者たちを弔ってだな、その」
『ブリッジから丸見えですから、お気になさらずに』
「……ハ、ハイ」
『艦長もそこにいますね? 貴女は少し、年頃の女の子としてのアレコレを勉強してください。百戦錬磨の無敵提督である前に、乙女心をもう少し頑張ってください。クルー一同からは以上です。では』
一方的に通信が切れて、ユアンはムツミと一緒にブリッジを見上げた。日の落ちた海は今、星明かりの下でヴァルハラを次なる戦いへと運んでゆく。
無数の視線を感じたが、構わずユアンはムツミの細い腰を抱き寄せた。
ムツミは「ひあっ!?」と素っ頓狂な声をあげたが、いつもの強気が嘘のようにユアンの胸に頬を寄せる。彼女を見下ろし、ユアンははっきりと告げた。
「ムツミ艦長……戦う君を俺が守る。終わりの見えぬ旅路で、戦い続ける君を支える。だから――」
「だから?」
「俺に、俺たちに大事にされてくれ。そして、俺と一緒に自分を大事にしてくれ。俺には君が、とても大切に思えてきたから」
「……はいっ! 了解ですっ!」
夜の大洋から見上げる星海は、眩い光でユアンとムツミを照らしていた。
抱き締めたムツミの柔らかさと温かさが、ユアンに思い出させてくれる。忘れてはならぬ少女に注ぐべきだった、それができなくて凍っていた感情を。黒い憎悪に冷たく尖った気持ちが、氷解する中で……本当に戦う理由、戦い抜くための決意が姿を現す。
それを言葉にするには、まだユアンの胸は白い影の傷が深く深く痛む。
今はなにも語らず、彼は唇に言葉を並べる以上の想いを乗せた。それはムツミの唇を伝って、彼女の中に自分の価値以上のものを宿らせるのだった。
はじめまして!東北でラノベ作家やってるおっさんです。ロボットアニメ等を中心に、ゆるーく楽しくヲタ活してます。よろしくお願いしますね~