朱き空のORDINARY WAR(14/32)
第14話「海の少女と空の男、上陸」
メルドリン市に上陸したユアンは、ムツミに言われるまま郊外へと車を走らせた。
そして今、二人は海を臨む丘の墓地に来ていた。
まばらながらも行き交う人々は、慰霊の地の厳粛な朝を共有している。老若男女の大半が黒い服の中、白いワンピースのムツミはとても目立った。その美貌が、誰もを振り向かせて言葉を奪ってゆく。
後ろを歩く黒服のユアンも手伝って、名家の令嬢を彷彿とさせる風格だ。
ユアンの前を今、花束を手にムツミは真っ直ぐ歩いていた。
彼女は振り向き後ろ歩きに、ユアンへと微笑む。
「ユアンさんっ! ……ほんっ、とぉーにっ! 機械! 駄目なんですねっ」
「……力一杯言わないでくれるか。これでも気にしてる。車の運転は久しぶりなんだ」
「AT車ですよね? エンストする人、初めて見ました!」
「す、すまん」
だが、クスリと笑うムツミは上機嫌だ。
再び前を向いて、強い歩調で進んでゆく。
その先に、巨大な慰霊碑が現れた。
海へと突き出た岬の上に、御影石で打ち立てられた慰霊碑。それを見上げて立ち止まると、ムツミはじっと碑文を見詰める。
ユアンも、海風に洗われる石碑を前に身を正した。
これは、どこの街にもある五十年戦争の碑だ。
世界全土が戦場となる中、何十年も前から各地で建てられたものの一つである。しかし、戦時中は訪れる者も少なく、この碑を墓とするしかない死体なき戦死者は増え続けた。
生死すら不明なままの人間は、億をくだらない。
まだこの世界は、人類滅亡寸前の終戦から半月しか経っていないのだ。
ムツミは帽子を脱いで献花すると、両手を合わせて目を閉じた。
ユアンも左の胸に右手を置き、静かに祈りを捧げる。
人類は愚かにも、数字で全てを計り過ぎた。
先鋭化した効率重視の世界が、経済格差や民族問題、思想の違いで戦争していい理由を安易に選ばせてしまったのだ。コストとリターンの両天秤でしか全てを見られなかった時、人命や平和、調和と融和の精神は泡銭にもならない。
「ユアンさん、一つだけ覚えておいてほしいことがあります」
顔をあげたムツミは、帽子を手に振り返る。
その表情は、普段のあどけない美貌とは違った輝きを放っていた。
周囲にも祈りと願いが満ちる中で、ムツミには慈しみの笑みが浮かんでいる。それはまるで、女神か天使のような慈愛と慈悲に満ちていた。
とても十代の女の子には見えない。
「わたしたちエインヘリアル旅団の人間は、恐らくまともな死に方をしないでしょう。わたしもそうですし、今まで散っていた仲間たちもそうでした」
「……俺はパイロットだ、覚悟はある」
「昨日撃沈した秘密結社フェンリルの偽装貨物船、あの情報をもたらした諜報員の方も……恐らくもう、この世にはいないでしょう。連絡が途絶え、死体すら回収できません。だから」
グッとまた、ムツミが近付いて見上げてくる。
間近に背伸びしたムツミの顔があって、互いの呼気が肌を撫でる距離だった。
真っ直ぐユアンの目を見て、彼女は通りの良い声を響かせた。
「だから……絶対に! ぜーっ、たい、にっ! 勝ちましょう! もうこれ以上、戦争で泣く人を増やさないために。戦争で亡くなる方を生み出さないために!」
「……ああ。だが、その、艦長」
「はいっ! わたしも全力で戦います。ユアンさんみたいな腕利きのパイロットさんに来てもらえて、よかったです。これからもよろしくお願いしますっ!」
「わ、わかった。わかったから……顔が、近いんだ。いつもいつも」
満面の笑みで、ムツミはようやく離れた。
こうして見ると、先程の大人びた表情が嘘のようだ。
どこにでもいる普通のティーンエイジャーで、普通以上に可憐な美貌が眩しい。蒼い髪を海風に揺らしながら、彼女は帽子を被って歩き出す。
「よしっ! 次はお買い物です。行きましょう、ユアンさんっ!」
「了解だ、御嬢様」
「あっ、それいいですね! 艦長って呼ばれるとやっぱり、こぉ……」
「ああ、まずいだろうな。壁に耳あり障子に目ありって、御嬢様の国の諺だろう?」
「それもありますけど、雰囲気が盛り上がらないです! 上陸なので! 休暇も兼ねてるので!」
「そっちか……はは、まあいいさ。それじゃあなんなりと、御嬢様」
元気よく歩き出したムツミを追って、ユアンもポケットに手を突っ込みつつあとを追う。
こんなにリラックスした気分の陸は初めてだ。
大戦中もいつも、陸にいる時は奇妙な焦燥感があった。どこか地に足のついていないような、自分の居場所がないような不安。戦闘機のコクピットにいる時と違って、陸では全てがユアンを必要としていない気がしたのだ。
あの女以外の、誰にとっても不必要な自分だと感じていた日々。
だから、いつも空に戻りたかった。
自分が帰るのは空で、陸に来ているだけだと思っていた。
だが……やはりユアンも人間で、二本の脚で大地に立つ場所が必要なのかもしれない。それはムツミたちが守る世界であり、ムツミたちが戦うあの艦……特務艦ヴァルハラのような気がした。
「さて、御嬢様の買い物にでも付き合ってやるか。……ん? な、なんだ? まさか、この音はっ!」
不意に、耳の奥で鼓膜が震えた。
その振動をユアンは知っていた。
遥か遠くから、朝の空気を伝って突き刺さる、音。
瞬間、ユアンの全てが黒く燃え上がる。
ムツミに連れられての休日が、紅蓮の炎に包まれる。
そして、見上げる空に彼は飛行機雲を見た。
「この音は、間違いないっ! Fv-67"レブンカムイ"ッ!」
「ユアンさん? あの……あ! こ、この音って」
「間違いない、C型……そこにいたかっ、エルベリィィィィデェェェェッ!」
絶叫を吸い込む中、白い翼が天空を引き裂き飛ぶ。
雲一つない青空を飛ぶ機体は、見上げれば小さな点にも等しい。
だが、その独特なシルエットをユアンは網膜に刻み付けた。
格闘戦に特化した前進翼とカナード翼は、まるで鋭く鍛えられた聖剣の輝き。触れる全てを千切って断ち割る、魔剣の刃にも等しい。この世で僅かに生産された、嘗てのユアンたち第666戦技教導団……吸血部隊と恐れられたエース集団だけの機体。
空を朱に染める翼は、純白の影となって飛び去った。
傍らで見上げるムツミも、ユアンの動揺で事態を察したらしい。
しかし、既にユアンは正気ではいられない。スーツの内ポケットから携帯端末を取り出し、おぼつかない手つきでいじり出す。
「そこを動くな、エルベリーデ……この街に降りる気なら! クソッ、通話にはどうしたらいい、どこを――ええい、埒があかんっ! どうやれば母艦に連絡が取れるんだ!」
「ユアンさんっ!」
震える手がもどかしくて、ユアンは携帯端末が浮かべる文字列を掻き混ぜていた。だが、通話機能はおろか、メールも打てずに同じメニューページをぐるぐる回るだけ。
「ムツミ艦長っ! すぐにヴァルハラを呼び出してくれ! ……クソッ、これだから機械は苦手なんだ! 急いで戻らなければ。俺は、俺はっ! ――!?」
不意に携帯端末を取り上げられた。
慌ててムツミを見やるユアンは、絶句する。
唇が言葉を紡ぐ仕事を奪われた。
触れてくる唇が、ユアンの呼吸を止めてしまった。
心臓すら止めたかもしれない、一瞬の出来事。
そっと唇を離すと、目を開けたムツミが表情を引き締める。
「落ち着きましたか、ユアンさん。これ、お返しします」
「あ、ああ……それより」
「既にヴァルハラの方でもレーダーで補足してる筈です」
「じゃあ、急いで艦に! 奴を逃しては」
「いけませんっ! ユアンさん……死ぬ気ですね? 刺し違えてでもって、そういうこと考えてます。そういうのっ、めぇーっ! ですっ!」
グイとムツミは、人差し指でユアンの鼻を押してくる。
思わず言葉に詰まりながらも、ユアンは黙るしかない。
頭上を飛び去った仇敵は、この街に降りるかもしれない。すぐ手が届く先に、仲間の仇がいるかもしれないのだ。そうと知ればもう、胸の奥に沈めた憎悪が抑えられない。
気付けば震える手がわなないて、武者震いが収まらない。
「奴は……エルベリーデは、仲間を! 俺の仲間を……殺したんだ。一人残らず……皆、戦争の終わりに新しい人生が待っていた。それを!」
「そうです、そしてユアンさん! 今も彼女は戦後の世界を脅かしています。ユアンさんの仲間の方たちだけじゃありません。これからも、新しい人生を奪い続けるんです」
「だったら!」
「またチューしますよ! 何度でも! ……お願いです、落ち着いてください。ユアンさんはもう、あの"白亜の復讐姫"を倒して、刺し違えて終わりではないんです。だから!」
思わずハッとして、ユアンは口元を手で抑えた。
すぐに先程の、ムツミの唇の感触が思い出される。
気付けば顔が火照って、思わずユアンはムツミから目を逸した。
「そ、その、済まなかった……取り乱してしまった。だが」
「大丈夫です。ユアンさんには必ずいつか……あの"白亜の復讐姫"を倒してもらいます。そして、彼女を狂気へと躍らせるフェンリルも……わたしと一緒に潰してもらいますから」
「……ああ。そうだな。そうだ、だから俺も……あの艦に、ヴァルハラに乗ったんだ」
「はいっ! じゃあ、あとは艦に残ったクルーたちに任せましょう。お買い物ですっ! それとも……もっとデートっぽくしましょうか?」
「なっ、なにを! 大人をからかうな……全く、困った御嬢様だ。……これでいいか?」
「よろしい! 行きましょう。今日は難しいことは忘れて、パーッと息抜きです!」
ムツミの笑顔に、不思議と平常心がユアンへ戻ってきた。
エルベリーデへの愛憎渦巻く怨嗟の気持ちは、まだ燃えている。ユアンの中でにらいで沸き立つままに、黒い炎となって己を灼いている。
だが……不思議とムツミを見ていると、ささくれだった感情が静かに凪いでゆく。
そう、蒼髪の少女艦長はまるで凪いだ海だ。
陸に居場所がなかったユアンを、海を征くヴァルハラへ招いたワルキューレのよう。そして彼女は、遠慮なくユアンの腕に抱きつき、グイグイ引っ張って歩き出す。
二人の休日は、始まったばかりだった。
そして、ユアンの進む先には今……予想だにせぬ再会が待っているのだった。