ブラック騎士団へようこそ!(5/26)
第05話「蛇遣い座の女神の裁き」
ラルスの目の前で、おずおずとヨアンが立ち上がった。両手で胸と股間とを隠しながら。相変わらず無感情な表情は、見開く瞳が僅かに潤んで見えた。
これ以上は戦えない、ラルスも周囲もそう思っていた。
だが、彼女は立った。
そして、無情にもハインツの声がヨアンを突き動かす。
「ヨアン! さっさと片付け給え! ……役に立たないなら、来月の契約を更新しないが、いいのかね? また奴隷の生活に戻りたいなら、それもよかろう」
ビクン! と震えたヨアンが唇を噛む。
彼女はゆっくりと、両手を身体から離して拳を握った。
慌ててラルスは、剣を持ったまま目を覆う。
「ヨアンさん、いけないですよ! 女の子がそんな、ッグ!? ッハア!」
一瞬だけ視界を自ら遮った、次の瞬間には激痛に呼吸が止まる。
みぞおちへと、飛び込んできたヨアンの肘打ちがめり込んでいた。
平服姿で鎧を着込んでいなかったため、ラルスは息を吐き出したまま倒れ込んだ。だが、それでヨアンの反撃は終わらない。肌も顕な褐色の裸体が、馬乗りになってラルスにのしかかってきた。容赦なく顔面を小さな拳が襲う。
「ちょ、ちょっと待って下さい、ヨアンさん! 女の子がそんな、ゲウッ! ああもう、やめてください! 冷静になっ、カハッ! ……よし、ましょう。俺には、できな……い? あれ?」
彷徨うように宙で揺れていたラルスの手が、何かに触れた。
柔らかくて、温かくて、僅かに汗ばんだ……それは、ヨアンの胸だった。極めて平坦に近い膨らみへ、ラルスの手が吸い付いていた。
ヨアンが拳を振り上げたまま、固まった。
気まずい沈黙のあと、弾かれるように彼女は離れる。
ようやく立ち上がったラルスは、グイと親指で鼻血を拭って叫んだ。
「ハインツさん! 彼女を止めてください! これ以上、ヨアンさんを辱めることはできません。みんな見てるんです! それに……俺はこれ以上、彼女とは戦えない!」
だが、取ってつけたような返答が戻ってくる。
「ならばラルス君、君の敗北ということでよろしいか? 戦意喪失とみなすが。なに、ヨアンはまだ戦える……戦わねばならんのだ。こんな野良犬の如き娘、どこの弱小騎士団とて迎えてはくれまい。用心棒代わりの契約とて、難しいだろう」
「クッ、卑怯な! ハインツさん、貴方はそれでも騎士なんですか!」
「無論だ。私は栄えある常闇の騎士が一人、ハインツ・ドナヒュー。このゾディアック黒騎士団の人事と財務を預かる、真の実力者だと自負している!」
そうなのかと、ラルスは周囲を見渡した。
由緒正しき名門、ゾディアック黒騎士団に参集した騎士達に、無言で賛同を求めた。
誰もが目を合わせるのを嫌うように、俯き視線を逸らす。
信じられない現実に、ラルスは打ちひしがれた。
それでも呼吸を落ち着かせると、傍らに剣を突き立て手放す。
「無手の相手に剣は不要! さあ、ヨアンさん! かかってきてください。これ以上、互いに苦しむ必要はないですよ。誰だって、生活がかかってる、それはわかるんです!」
そう言ってラルスは、身につけた上着を脱ぐ。
晴れ始めた空からの日差しが、鍛え抜かれた肉体美を照らしていた。脱いだ着衣を手に、両腕を広げてラルスは防御を捨てる。
「どうぞ、ヨアンさん! 好きなだけ打ってください! 俺は倒れない、負けない……この戦い自体が不当だと、真に勇気ある人が止めてくれるまで……耐え続ける!」
水を打ったような静寂が訪れた。
ヨアンは明らかに戸惑いを見せて、動揺している。彼女が救いを求めるように、ハインツの方を振り返った。だが、当のハインツ自体がラルスの言葉に絶句していた。
ラルスは無防備に近寄り、裸のヨアンにそっと自分の上着をかけてやる。
「ヨアンさん、強いですね! 俺も自信はあったつもりでしたが、さっきので精一杯です。もし、貴女をこれ以上辱めるようなら……俺はこの騎士団に未練はありません!」
まばらな拍手があがった。
それは次第に、さらなる拍手を呼ぶ。
気付けば周りの騎士たちは、大地を踏み鳴らして喝采を叫んでいた。
空を覆っていた雲さえ、まるで嘘のように消え去っていた。
そして、一人の少女が歩み寄ってくる。
「才気溢れる若者には、失望されたくないものです……そうですね? 少年」
リンナだ。彼女はラルスとヨアンの前まで来て、勝負はついたとばかりに振り返った。真っ白な髪がふわりと浮き上がって、ラルスに集まる注目の視線をかっさらう。
堂々とリンナは、ハインツへ向けて言い放った。
「ハインツ殿、この場で貴殿以外の全ての騎士が、決着を悟ったようです。どうでしょう、そろそろ……若者への気高き試練を終わらせてください」
中庭に集った誰もが、目を点にした。
ラルスも言葉を失い、ヨアンも小首を傾げる。
「ハインツ殿は有望な若者を見ると、すぐに試練で鍛えて導こうとします。今回は、少しやりすぎてしまいましたね? 本当はヨアンさんを大事にし、少年にも入団して欲しいのに。そうではありませんか? キャンサー支隊隊長、ハインツ・ドナヒュー殿」
おお、と感嘆の声が周囲に満ちる。
当のハインツ自信が、一瞬だけのけぞり黙ったあとで、笑顔を作った。
「そ、そうなのよ! 嫌ねえ、アタシったら! ちょっとやりすぎちゃったわぁん? ごめんなさいね、ヨアン。あとで御洋服、買ってあげるから、許してねん? さて……もう既に決めてたことだけど、試させてもらったわ! アタシの目に狂いはない……合格よ!」
口調からすぐに、ラルスはハインツの動転を見抜いた。
だが、新たな団員の誕生を祝福する拍手の中、それがどうでもいいことだと思える。本心ではラルスを疎ましく思い、ヨアンを捨て石にしたことは明らかだ。
それを見透かした上で、リンナはハインツを持ち上げつつ、その面子を守ったのだ。
ラルスには到底思いもしない解決法、しかし心当たりがある。
今朝の城門前の事件でもそうだった。
美しき少女騎士の言葉は、百振りの剣にも勝る価値で活路を切り開く。
周囲の盛り上がりを背負って、リンナが言葉を続ける。
「二人については、私のオフューカス分遣隊で預かりましょう。ハインツ殿の言葉の通り、最後まで戦ったヨアン。そして、そんなヨアンを庇って騎士道を貫いた少年……両者がそろって勝者、これでよろしいかと思います」
「え、ええ! そうよ、そうして頂戴! アタシも今、それを言おうと思ってたの!」
「ありがとうございます、ハインツ殿。では、両名はこれより私の指揮下に入ってもらいます。よりよき騎士を目指して、精進してもらいたいですね。ようこそ、ゾディアック黒騎士団へ。歓迎します」
そう言ってリンナが、手を伸べてきた。
二度目の握手は、大勢に囲まれ熱狂的に讃えられた。
手を差し出して汗に濡れていると感じ、急いでラルスはズボンの尻でそれを拭く。そうして握ったリンナの手は、先ほどと違って少し熱かった。
それからリンナは、ヨアンとも握手を交わす。
気になったので、ラルスは小声で聞いてみた。
「ヨアンさんの件、ええと……隊長? リンナ隊長の権限でなんとかならないんですか?」
「なんとかするつもりですが、すぐにとはいかないでしょう。人事権は最終的には、ハインツ殿が握っていますから。ですが、善処を約束します」
「あ、ありがとうございます。ヨアンさん、よかったですね! 正式な騎士になったら、今よりずっと楽な暮らしが……ま、まあ、それだけが目的ではないにしろ、少し俺もわかりましたから」
鼻の下を指で擦りながら、ラルスは白い歯を零して笑った。
きょとんと見上げてくるヨアンも、その瞳に不安の色が今は消えている。
「騎士は食わねど高楊枝、なんて言葉もあるけど……立派な騎士を目指すにしろ、そうでないにしろ、衣食住が満ち足りてこそだなって。俺、そんな簡単なことも考えてなかった」
ラルスの恐縮したような言葉に、ヨアンは大きく頷く。
彼女はラルスが羽織らせた上着の前を合わせると、ぽつりと小さく呟いた。
「わたしも、正騎士に、なれる? ……もっと仕送り、したい」
切実なその声に、ラルスと顔を見合わせてから、リンナは首肯を返した。
それを見て、ヨアンは俯き加減に小さくはにかむ。
そんな時、本営の敷地内に鐘の音が響く。
そぞろに散らばり始めた騎士たちは、建物の中へと戻っていった。恐らく、午後の任務が始まるのだろう。一人、また一人と騎士たちは去っていった。その誰もが、ラルスには試合前よりもいきいきとして見える。
リンナは生真面目な真顔でラルスに、次いでヨアンに頷いた。
「では、少年。それからヨアンさんもです。これからよろしくお願いしますね。以後は私が責任を持って、お二人を支えて守ります。職務に精を出して、ゾディアック黒騎士団の名に恥じぬよう頑張ってください」
ヨアンが何度も頷いた。
ラルスにも異論はないのだが、つい一言聞いてしまう。
「それはもう。でも……あの」
「なんでしょうか。なにか疑問があれば、なんでも言ってください。少年にもヨアンさんにも、出来る限りの便宜をはかりますので」
「それです、それ。なんでヨアンさんは『ヨアンさん』で、俺は『少年』なんですか?」
「……貴方は男の子ですから。少女ではなく少年であってると思いますが」
「えっと、そういう意味ではなくてですね」
なんだか、ハインツの執務室で会った時もそうだったが、リンナは時々妙だ。人と少しずれているというか、妙なところで噛み合わない。高潔な実直さが服を着て歩いているような少女は、ともすれば融通が効かず頑固な一面をもっているらしかった。
大した問題でもなかったので、それ以上はラルスは言及をやめた。
「少年、とりあえず今日の仕事は一つしかありません。とても大事なことらしいので、そのことだけしっかり務めてください。時間は夕刻の六時、場所は大通りの五番町にある山猫亭です」
「五番町、山猫亭……そこでなにが?」
ラルスの当然の質問に、顔色一つ変えずにリンナは答えた。
「お二人の歓迎会です」
「はあ。えっと、それは」
「騎士団の経費という扱いになるので、支払いの心配はいりません。ヨアンさんも安心してくださいね。……そうですね、ヨアンさんの服をまずはどうにかしないといけません」
形良いおとがいに手を当て、リンナは少し考え込む素振りを見せた。
やがて彼女は、ヨアンと手を繋いで歩き出す。
「少年、夕方までに滞在する場所を探しておいてください。係の者に言えば、騎士団が借り上げてる宿舎も教えてくれます。私はヨアンさんの服を見繕ってきましょう」
「あ、はい。……あっ! ちょっと、隊長! 俺の上着! 待っ……ハクショーィ!」
春とはいえ、まだまだ王都を吹き渡る風は冷たい。
己の方を抱きながら、ラルスは凍える寒さを思い出して震えるのだった。