20190528EX『白い巨塔』
テレビ界のすみっこでテレビ作って考えてます。
テレビ朝日5夜連続『白い巨塔』3話から最後まで見ました。
僕は泣きましたよ。ボロボロ。
オタクなので田宮映画版・田宮テレビ版・唐沢版も見てます。
(すみません村上弘明版見てないっす)
でも岡田くんの財前でボロボロ泣きました。聴診器を温める仕草・里見に担ぎ降ろされて車椅子に乗る夕景・トルソー症候群とやらの反応・最後の汚い字・そしてモンブランのボールペン。演出の意図通りの場面でボロボロボロボロ涙こぼしましたよ。
OA見ながらTwitterの反応見て、終わっても盛り上がり続ける賛否見て
田宮版がやっぱり良かったとか、唐沢の「無念だ」は名台詞だとか、いろんな意見のある中。テレビのセールスにも関わったことのある僕として、すごいなあと思ったことの一つに、もう『白い巨塔』に関するネットの記事が多すぎて検索であげられないのだけれど、テレビ朝日が「『白い巨塔』はすでに古典としてストーリーも広く知られており、途中から見ても十分楽しめる作品である」と売り出したことだ。
僕はこのコメントを見て、びっくりした。なんて割り切りだ!と。
よく途中から見ても分かる作りが大切だという、訳のわからない演出論がテレビ界にはまかり通っていて、ソレに対して日本テレビの土屋敏男さんが、「テレビは途中から見る人に優しくすることばかり考えて、その番組を楽しみにして最初から見ている人のことをもっと大切に考えなければならない」(出展捜索不可、記憶による)とおっしゃっていたことがあったが、<みんながストーリーが分かっている古典であれば、ドラマでも途中からでも見てくれる>という華々しい宣言だったわけだ。前もって言っていた通り、番組自体の作りも、無理にダイジェストを入れたり、回想をいれたりしない堂々とした作りでドラマを展開していたことが清々しかった。(登場人物の役名は丁寧にテロップ表記されていたが、それは許容の範囲でしょ?)
そうドラマはセールスの際、必ず「途中から見られない」とか「視聴者は減ってゆく一方」と、言われることが多いのだ。みなさんが覚えているヒットドラマの視聴率を見るとそうじゃないと感じる方も多いと思うが、ドラマの大多数は初回放送から暫時視聴率は下がってゆくことが多い。ドラマファンは改編期第1回だけは必ず見ると言われているから、ドラマの実力は第2回の視聴率と言われるゆえんだ。そこで新作スタートの機会を増やすため、1クールドラマが多くなり、出演者も1クール単位で仕事を決めてゆくので長期ブッキングが難しくなり、と相互作用でドラマは1クールに収束していったのだと、勝手に考えている。
そんな中、『白い巨塔』は見事に途中から入っても十分わかるドラマだった。これは大変なことだ。
でも、もともと日本人って、良いところだけ見るという文化があると思っていて、一番わかり易いのが歌舞伎。白波五人男なんかも(演目としては『弁天娘女男白波』というタイトルなんですね)
「知らざあ言って聞かせやしょう」と啖呵切る場面か、白浪五人男が稲瀬川へやってきて名乗りを上げ捕手とやりあう場面だけを演目として切り出し、楽しむ事が出来る結構珍しい民族だと思うんですよね。イギリスで『ロミオとジュリエット』のバルコニーの場面だけとか、『ミス・サイゴン』でヘリが降りてくるとこだけ演ったりしてませんもんね?(浅学に付き、コレに関して何か異論があれば是非教えていただきたい) 落語だって『らくだ』とか、脳天の熊五郎と久六がらくだを火葬場に運ぶところはほぼ演らない。
日本人は「面白いところだけ観る」という結構珍しい文化を持った国民だと思うのです。
なーんかこの辺に新しいコンテンツの作り方のヒントある気がしてるんですけどね。同じ役を違う人が演って「あっちが良かった」「こっちの方がよかった」という楽しみ方もしかり。コレについてはまたの機会に。