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赫奕たる夏風7 五章 かぐや姫と人魚姫
1
「今日はこの草むらに、夏とくれはの秘密のお部屋をつくろう。木箱を持ってきて文机にする。その上に、この芒(すすき)と小萩を飾ろう」
「お月見のお飾りでございますね」
「裏に放ってある籠目にあしらえば、ちょうどお爺様のお部屋みたい、長月らしゅうなる」
「籠目ですね、取ってまいります。お団子はどうしましょう」
「泥団子でガマンだ。そうだ、香炉のかわりにするから、昨日河原で拾った石も持っておいで。夏はその間に、畑の裏の小菊も摘んでくるから」
「じゃあ、お団子の高杯のかわりに、割れたお小皿も持ってきますね」
「それはいい。頼んだよ、くれは」
頼んだよ、くれは。
そのお言葉を、何百回、何千回、お聞きしたことでしょう。
それはすなわち、玄蕃頭さまとお方さまの口癖でもありました。
ああ、頼んだよ。
すまないね、ご苦労だったね。
ありがとう……
2
夏さまと私は三つ違い。ご一緒に遊ぶことも多うございました。
女児らしいままごと遊びの中でさえ、夏様は気の利いた思い付きや、さりげなく卓越した趣を添えられる感性をお持ちでした。
幼き夏姫様は、お言葉が出るのも読み書きされるのも、ずいぶん早かったようでございます。
けれど、おつむの大変おりこうである以上に生まれながらの気品、威厳のようなものが、お小さいながらに確かに備わっておられました。
お立場が高いお子様にありがちな、むやみやたらと威張ったり、目下のものを卑下するような下品をされたことは、一度もありませんでした。
人の上に立つ者の謙虚なおごそかというものを、夏さまは御祖父の玄蕃頭様から、自然と学ばれておられたかと存じます。
誰もが自然と、「夏姫様」とお呼びかけしてしまうような、りんとした気高さがおありでした。
正直なところ、私はいつも、自分が年かさであることをすっかりわすれてしまうほどでした。
余談でございます。
私の名前「くれは」は、夏さまと玄蕃頭様から賜ったものにございます。
親からもらった最初の名は、お竹と申します。
「お祖父様、お竹のタケは、かぐや姫の竹と同じですか?」
お庭の竹林で竹取の一節を口ずさみながら、玄蕃様と一緒にかぐや姫ごっこをしていた時でした。夏さまは五つの頃には、竹取物語をそらんじておられました。
「そうじゃ。まっすぐ伸びる、強くしなやかな青竹じゃ」
「では今日からお竹は、タケではなく、なよ竹と呼びます」
「わ、私がナヨタケでございますか?」
「ほう、姫が名付け親になるか。じゃが、おなごの名にはちと長いの、舌をかみそうじゃ。うむ、なよ竹…くれ竹の、簫とゆれたる笹葉舟…」
お殿様はポンと手をお打ちになられました。
「呉葉、はどうじゃ」
「くれは?」
「呉竹の葉じゃ。強くしなやかなだけでない、さわさわと優しい音が聞こえよう。優しいお竹にはピッタリじゃ」
「くれは…。良き名でございます。なあ、くれは」
私はただ、お二人のはざまで目を白黒させて、しどろもどろするだけでございました。
以後夏さまは終生わたくしを「くれは」とお呼びになられました。
夏さまお気に入りの、なよ竹のかぐや姫の、呉竹の葉。
「クレハたあ、まるでお公家か女官みたいじゃないか。良い名をいただいたからには、しっかりとお勤めするんだよ」
何の屈託もなく、母もよろこんでおりました。
3
ご長女ゆえに、もともと年齢不相応にしっかりされてはおられました。
しかし夏さま本来の頭の良さ、学ぶことへの貪欲さは、お爺様のお膝の上で、自然と身についたものでございましょう。
字も分からぬ稚気なき頃より、お祖父様のお膝でおじいさまの読まれる本を目で追い、詠まれるお歌を聞き、筆先から描き出される書画を見ておられた。その呑み込みの速さと量、得た知識を適時引き出してこられる鮮やかさは、明らかに子供のそれではありませんでした。
自分で読めるようになれば、お爺様のお部屋に積み上げられた難しい書をかたっぱしから読みふけり、竹取をはじめ万葉、古今など、気付くとひととおりそらんじておられました。漢文ですら、読み下すのはおろか、朗々と七言も詠じておられました。
玄蕃頭さまは幕府の長崎軍艦習練所時代、後の日本海軍を背負って立つ錚々たる顔ぶれの優秀な若者達を大勢お育てになられた経験をお持ちのお方。そも、ご自身も、幕府最高学府である湯島昌平坂学問所の最優等生であらしゃり、甲府の名門徴典館の学長も務めていらっしゃいました。
であれば、かなり早い時期より、孫娘の並みならぬ才智に気付いておられたことでしょう。
やがて玄蕃様は、旧武家男子が受けるのと同様の、いやそれ以上の高い教育を、三つにも満たぬ夏さまに施されはじめたのでございます。
女子に教育など不要とされていた時代でした。
明治政府による新学制が敷かれ、各地に小学校ができ始めていましたが、女の子が学校に通うというのは明治十年代始めには、まださほど普通のことではありませんでした。
士族や上流階級の娘であれば家庭で必要な素養を修めましょうけれども、それはあくまで「おんな」の学び。
女に余計な学問など要らぬ、女に知恵がつくと家が傾くとされておりました。
明治四年、我が国最初の女子官費留学生四人がアメリカに派遣されたのは有名な話ですが、津田梅子はじめ四人とも旧幕臣・逆賊扱いされた士族の娘ばかりだったことも相まり「食い詰めた親に外国へ売り払われた口減らし」だと、世間は本気でそう信じていたほどでございます。
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そんな中、玄蕃頭さまのご教育の内容は実に高度な、充実したものでした。
経・史・詩文の古典をはじめ、四書五経、小学・近思録の講義は毎日のならいとされました。同じ年頃の子供が学校で読み書きを習う頃、夏さまが学ばれていたのは、れっきとした儒学朱子学、一介男子が修めるべき教養なのでございました。もとより書を読むことが何よりもだいすきな夏さまのこと、むしろお爺様との勉学問答を、楽しい遊びかのように、実に意欲的にこなされておられました。
朝の講義に先んじては、お体を鍛えるための武芸のお稽古もございました。
玄蕃頭様は直心陰流免許皆伝のお腕前。戊辰戦争では実際に剣を抜かれた軍師なれば、まこと武家の男子を鍛えるがごとく、毎日の素振りに始まり、型の習練、馬の乗り方も厳しくご指導なさいました。
こちらも夏さまは女にしておくにはもったいないほどの目覚ましい上達ぶりをおみせになりました。むしろ剣の修行のほうが、夏さまの性には合っていたのかもしれませぬ。
以来、絣の筒袖に紺袴、根元を膨らませずに高く一本に結い上げるお髪は、夏さまの日常お決まりのお姿となりました。
茶の湯は遠州流。
これは徳川幕府草生期に老中職を賜った永井宗家二代目・尚政公が、当代髄一の茶人・小堀遠州に師事した佐川田昌俊を家老として抱えていたことに由来します。二代様ご自身も茶の湯はじめ書画陶庭全般に通じた粋人であり、開祖より茶の湯は永井家の家芸でございました。
いわゆる大名茶でございます。姿勢や手捌きにはじまり、呼吸のすべてが古武道の体式につながる「きれい寂び」と称される遠州の茶の世界は、後の夏さまの美的観念に深く根付いてゆくのでございます。
4
ですが、孫娘のご教育にあたり、殊更に玄番頭様が力を入れておいでだったのは、洋学…
外国語と西洋の歴史、文学でございました。
永井家へ養子に下る以前のお若き玄蕃頭様は、独学でオランダ語・英語・フランス語・中国語を、後年にはドイツ語とロシア語も習得されておられました。
鎖国下で、と不思議に思われましょうか。
実際はペリーの黒船来航に先んじ、度重なる異国船来日への対策として、幕府と各藩の知識階級では諸外国語の必要性が既に深く認識されておりました。長崎や大陸を通し、原文または漢語に訳された西欧書籍が手に入ったと聴いております。
永井玄蕃頭様は幕府の外国奉行として、開国開港を迫る米英仏と通訳なしで強い丁々発止を交わされ、幕末期を通じては各国大使たちとの綿密なつながりを有しておられました。その語学力、怜悧にして誠実なお人柄ゆえに、幕府との折衝において全権大使の幾人かは「交渉の席にはナガイを」
と、直接指名してくることも少なくなかったそうです。
「今の世界を支配しているのは英米仏。彼らの言語がわかれば、世界中の本を読むことができる。世界中の人間と話ができる。世界が解るようになる」
玄蕃頭さまの口癖でございました。
事実、玄蕃頭様のお部屋にうずたかく積み上げられたたくさんの書物のうち、半分近くは外国語のものでした。
夏さまは英語とフランス語をみるみる習得され、やがて日常のお2人の会話も、其処ここで外国語のやとりとりが聞かれるようになりました。
わたくしども使用人は、狐につままれたようにそれをぽかんときいておりました。
母のおしまだけは、
「ぐもーにん(good morning)でございます、お殿様」
「そいつはたいしたテビヤン(tre` bien)だねえ」
と、耳が勝手に覚えたのか、滅茶苦茶ながらも隠れた語学の才能を発揮しておりました。
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時々お米が買えなくても、書物だけは滞ることなく岐雲園へ届けられておりました。
届けられる外国語の本の表紙は、色とりどりに美しい紙で埋め尽くされていて、花やつる草のような飾り文字で、見たことのない豪華な異国の着物を着た姫君や、不思議なお城の挿絵がたくさんでした。
夏様は目を輝かせ、わたくしを隣に呼んで一緒に絵本を開いては、日本語に訳して読み聞かせてくださるのでした。
「むかし、海の王国に、美しい…little mermaid…?が、おりました。小さなリルマーメイは、あこがれていました、海の外の世界に」
「姫様、りるまーめとは、この絵の女人のことでございますか?」
「そうだと思う。けれど、きっと名前ではないな」
「体半分が魚のしっぽとは、気味が悪うございますね」
「それだ、くれは!人魚だ、little mermaidは小さな人魚だ!」
「人魚は恐ろしい顔をした、角の生えてる妖怪でございますよ?」
「それは日本の人魚だ。外国の人魚は美しい女の顔をしておるのだろうよ」
「西洋の人魚の肉も、食べたら不死身になるんでしょうか?」
「知らぬ。この先を読めばわかる」
「もののけ怪談は恐ろしゅうございます」
「うるさい。黙って聞いておれ」
はたして人魚の姫は妖怪ではありませんでしたし、食べられもしませんでしたが、子供心になんだか悲しいお話だったのは、知っての通り。
大人びてしっかりとされておられても、外国の美しい姫君や娘たちが出てくるお話に夢中になるご様子は、年相応の少女らしい、可愛らしい一面でございました。
少女らしいといえば、日本文学にしても、源氏をはじめ狭衣、中将姫、浜松中納言物語等、王朝の雅を舞台にした、優雅な姫君たちの美しい恋物語が、夏さまのご愛読書でした。
若き貴公子と姫君の儚き悲恋、若武者の勇猛悲壮…。
恋の実の何たるかも知らぬうちから、かなしみの薄絹は、夏さまの心の肩にふわりと掛けられていたものでしょうか。
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「お礼を申し上げるときはThank you」
「仙灸?」
「違う, Thank you so much。何かをお願いしたり、丁寧に伝える時はplease。 Englandでは、この二語は人生を成功させる魔法のことばとして、親が子供に最初に教えるのだそうだ。お爺様がおっしゃっていた」
「せんきゅう、ぷりい」
「Excellent 。ただし同じ英語でも、メリケンでの魔法の言葉は違うのだそうだ。It’s mine、コレは拙のモノなり」
「メリケンはケチでケンカ好きなのでしょかね?」
「知らぬわ。でもフランスは屁理屈ヤロウだそうだ」
「喧嘩っぱやくて屁理屈こね。外国人は江戸っ子みたいですね」
学んだことを、夏さまはいつも私に話して聞かせてくださいました。
それは継ぎ接ぎながらも、自然と私の中に染み入ってまいりました。
いつしか玄蕃頭様は、夏さまが学んでおられる時にはわたくしもお近くでご一緒するよう命ぜられました。
「姫は歴史をやるから、くれははこの手本を十回ずつ、この石版にかいてごらん。できたら儂に見せにおいで」
ただうれしゅうて、仕事もわすれて一生懸命手習いいたしました。
茶事の稽古にもご一緒させていただくようになりました。
お殿様の手さばきの美しさは、今も鮮明に覚えております。静から動へ、そして静へと還りまた動へと続く一連の所作は、よどみなき水の流れのようであり、一環の剣舞のようであり、弓弦引く武士の背中に張りつめる筋骨の、一瞬の静寂でもありました。
学問とお稽古が終わるころ、お方様はいつも夏さまと私に甘いおやつをご用意して待っていてくださいました。
普段口うるさい母も、私がお殿様のところにいる間は一切何も言わず、黙って好きにさせてくれたものでした。
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本を読む喜び。
一杯の茶に託す静か。
くれはという名。
かけがえのない人生の宝を、玄蕃頭様が、授けてくださいました。
貧乏奉公人の娘には、できすぎた僥倖でございました。
夏さまの話のはずが、つい懐かしさに自分語りが過ぎました、どうかご勘弁を。