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それはただの違い、そして結局はどうでもいい。
昔は、自分と違う考えの人に対して、いかに自分の考えは正しいかを証明しようと躍起になっていた。そして相手も自分と同じような考えを持って行動してくれるよう期待した。考えを共有できない人は分かり合えない人、そういう人は付き合う必要ない相手なのだと決めつけていた。
こういう発想のベースにあったのは「どちらが正しいか決めなくてはならない」ということ。自分は正しいと主張する。あなたが間違ってると矯正しようとする。でも今思う、その「正しさ」って、一体何なのだろう?
自分の正しさを主張していたあの頃。同じような考えを持てない人に対して、口では「考え方が違うから仕方ないよね」とか言いつつ、相手に対し「間違ってる人」と思っていた。
私は、正しい。間違ってない。
だから、私に反論してくるあの人は、間違ってる。悪人である。
そういう発想をしていた。ただ単純な「違い」と、心の中では終わらせることができなかった。すべてジャッジしてきた。そうやって自分は勝ち残っていたかった。正しい自分でいることで、自分に価値があると思いたかった。
何にせよ「勝ちか、負けか」という発想。
いやー、本当に、意味ないよね。
今はただ単純に「違うんだな」と、心底思える。
考えが違う人に対して、場合によっては何も感じないわけじゃない。感情だってある。嫌なことされたら嫌だなと思う。怒りもあれば、もやもやだってする。
でも昔と今の大きな違いは、そこで自分が正しいかとか相手が間違ってるかとか、そういう判定にならないこと。
それはただの「違い」。
そして結局のところ、心の深い部分では、全部、どうでもいいのであった。
人がどういう考えを持っていようと、どうでもいい。
投げやりとか無関心とは違う、厳密に言うと「どういう考えを持っていてもいい」ということ。さらには、そんな他者の考えに対して、他者である私には「どうにもできない」、そんな意味もあるように思う。
人がどう考えようと、それはその人の自由意志。そこは他者が侵すものではない。
誰かが私を嫌い、と思っていたとして、それも私にはどうにもできないこと。
だから、どうでもいい。
かと言って、それを知ったら、人間だからやっぱり悲しいし、傷つく。悲しいし、傷つくけど、その人が私を嫌いと思う気持ちはその人の領域であって、私の問題ではない。
だから結局のところ、どうしようもない。つまりどうでもいいのであった。
私に直接攻撃してくる、とかだったらまた話は別だけど。
全部どうでもいい、の心境はかなり楽である。
どうでもいい、は「どれも良い」にも通じている。
誰の考えも、どんな思いも、どれも良い。
そこには、自分にかなり近い感覚もあれば、真逆の価値観もあるだろう。
でもそれは単純に「違う」だけ。
その違いが面白かったら一緒にいればいい、不快だったら距離を取ればいい。
それだけの話。
どうでもよくなると、以前だったらイライラしたり、時に心配すらしていた「私とは違う発想の持ち主」に対して優しい気持ちになれる。「ああこの人は心から本当にそう思ってるんだな」って、感じる余裕が生まれる。
昔は批判的な気持ちに陥りがちだった。でも今は、批判的な気持ちが出てきたとしても、その先に「どうでもいい」があるので、批判的な気持ちのままいることがない、というか、できない。
それは心の柔らかいさまだ。
心の柔らかいさまは、楽なのだ。
どうでもいい、に辿り着くには、自分の中の「どうでもよくない」に向き合うことなんだと思う。
苦手である、嫌だなと思う、怒りすら感じる、憤る、不愉快に思う、悲しくなる、苦しくなる。
どんな感情も、まずは否定しないこと。自分の中にそれがあるって気づくこと。
受け入れること、排除しないこと、治そうとする必要もない、ただ自分はこうなんだ、こう思ってるんだ、って知るだけでいい。
自分を否定しない。それはつまり、相手も否定しないこと。
そんなことから「どうでもいい」ははじまっていく。
人間、生きてれば人との間に色んな衝突もあるけど、それはただの違い。
そして結局はどうでもいい。
どういう考えを持っていてもいい。
どうにもできない。
どれも良い。
「どうでもいい」って、実は最強じゃないのかと思っている。