見出し画像

ラジオで話したはなし

ラジオにゲスト出演しました


アートディレクター/グラフィックデザイナーの冨貫功一さんがパーソナリティを務める毎月第1日曜配信「Tokyo Cross Culture」にゲストとして出演しました

最初にいただいたゲスト出演への打診メール、正直「何かの間違いでは?」って思ってしまうくらい

私にとっては夢にも想わなかったお話でした

もちろん即答、断る理由がありません

なんなら被せ気味に「出演させてください」とお返事したのでした


『ひとり大反省会』勃発

収録は滞りなく終え、本当に楽しくあっという間でした

ですが、帰宅の電車のなか脳内は何テイクも重ねていくひとり大反省会勃発

「ああ言えばよかったかな」

「この言い回し伝わったのかな」

「あそこはもう少し言葉を重ねたかったな」などなどなど、エンドレス


それなら、せっかくオンエアにもなったことだし

言語化してみるかなと思った次第でブログにまとめました


アーカイブ配信も期間限定であります

こちらを読んでいただいてご興味持っていただきましたら

ぜひそちらもチェックしてみてくださいね


ざっくり、30分何をはなしたのか

ー『画家』という肩書が世の中的にレアなのだということに気がつかなかった私が歩んできた半生についてですー

  • 画家になったきっかけ

  • 社会人として画家を継続する難しさ

  • イラストレーターではなく画家と名乗る理由

  • スランプに陥った時どうしたのか

  • 続けるために大切だったこと

などをおはなししました


画家になったきっかけ

ー私のそばにずっと画家がいたー

画家と初めて会ったのは幼稚園まで遡ります

同級生に比べて一際小さかった私がある日、頬にくっきり歯形をつけて幼稚園から帰ったそうです。すぐに同級生と同級生のお母さんが謝罪に来てくださりました。何を隠そう、そのお母様が団体にも所属する洋画家さんだったのです。私が会った画家1人目。

ご自宅で子供アトリエ教室を開かれていると聞き、当時習い事を検討していた母はすぐに入会を決めたそうです。この同級生と仲良くなれば、もう噛まれないで済むだろうと思ったんだとか。

ただ、その子は私をいじめたかったのではなく、好きな子を見ると噛む癖があったのだそう。

それなら仲良くなったらもっと噛まれちゃうじゃないか!と今となっては思うこともありますが、その最初の「噛み」含め、痛い思い出は私の記憶にはないのできっと大丈夫だったのだと思います。

幼稚園の子供アトリエに引き続き、小学校でも別の絵画教室に通い、低学年には油絵を習い始めていました。ご家族で経営されていた絵画教室の先生が画家さん。なんならお父さん先生、お母さん先生、おばあちゃん先生みんな作家だったので一気にここで私が会った画家はカウント4。

小学校高学年には美大への憧れが膨らみ、私学中学へ進学。

中学高校時代の6年間は美術部で油絵漬けの毎日。

その時の恩師は油絵画家としての活動もされている先生でした

講師として勤務されていた先生も版画家でしたし、高校生ですでに銀座や京橋含め先生方の展示を見ることをきっかけに様々な画廊へ出入りするようになっていましたので、ここまでくると私が会った画家の数♾、もうカウントできません

幼少期から絵を描けば「うまいね〜」「上手だね〜」と褒められた私は『画家になる』発想は自然なことだったのだように思います

画家という存在がレアであるという印象を持たれているという事実に、逆に驚くくらい、私のそばにはずっと画家がいました


イラストレーターではなく画家という肩書を名乗る理由

ーどうしたナガタ大迷走期ー

数年前、とても真剣にイラストレーターとしてお仕事することを目標に活動していた頃があります。「名乗ったもん勝ちだ」とも思っていました。でも、ほんの数週間のことです。すぐに撤回しました。SNSで私の活動をご覧いただいている方は記憶しているかもしれません。今すぐに忘れて欲しい、どうしたナガタ大迷走期です。

目指せば目指すほど、イラストレーターの巧みさ、凄さに慄いちゃって、私には無理だー!ってなりました。イラストレーションは他者の代わりに表現をするプロフェッショナルです。提供するスキルが明確です。そのスキルは自分ではない人が価値を決めるものかなと思ったので、「ナガタさんの作品イラストレーションとしていいね」と言われるまで自称することはできないと考えたんです。

イラストレーションを作りたくないというわけではありません。ここは声を大にして言いたい。イラストレーションのお仕事したって言いたいよ、正直。イラストレーションとして起用していただく目標は今もしっかり胸に抱きしめて、表現活動をしています。(いかがですか?ナガタユミの絵。デザイナーの皆様ご検討よろしくお願いいたします)

ホームページはこちらから見られます。

何とぞ→https://nagaaaga.wixsite.com/yuminagata


社会人として画家を継続する難しさ

ー生きる希望すら見えなくなるくらいに絶望しましたー

大学を卒業する頃には1年先の展示のご依頼をいただいていたり、画家としての活動はありがたいことに自然と始まっていました。とはいえ絵を売った収入で生活というのはもちろん難しく、在学中に取得した教員免許を活かし中学や高校での美術講師としてのお仕事も新卒から並行していました。先生になるために一生懸命勉強したわけではなかった美大生、仕事は必死にやっても人並み以下。毎日が最悪でした。次第に疲弊し、完全に筆が止まりました。「枯れたんだな」って思いました。私は特別で、才能があるって思いたかったけどそうじゃない方の人だったんだなって、生きる希望すら見えなくなるくらいに絶望しました。

卒業後数年もすると、同級生だった美大の同志たちの顔を雑誌やテレビで見るようになり、輝かしい彼らと燻っている自分との差にひどく落胆し、現実を直視できない苦々しい日々を過ごしました。「苦しいなら止めればいいじゃん」わかっているんですよ、自分でも。何度もそう思いました。生きていることを諦めたくなるくらい、毎日泣くほど苦しいのに止めることができないほど、私は画家として生きたかったのだと思います。今も気持ちは変わりません。作品もないのに展示の予定を入れたり、描かずに切り貼りする技法にトライしたり(今のコラージュ作品に繋がっています)コンペに出品したり、とにかく画家としての活動を止めませんでした。正しいやり方なんかわからないけど、とにかく行動することで画家としての活動を継続させました。


続けるために大切だったこと

ー『ナガタユミ画家としての人生(仮)』まだまだこれからですー

油絵を始めて30年、画家としての活動は約20年。その間スランプで描けなくなったり、生活が変わったりしながらも画家として表現することから離れずに続けてこられたのは、まず親を含めサポートしてくれた全ての方々の存在があります。すねをかじり続ける娘をずっと変わらずに応援してくれた両親、展示の機会を提供してくださった画廊のオーナーさま、キャンバスを譲っていただいたり絵の具を送ってくださった先生方、デザインを作ってくださったり、告知を手伝ってくださったデザイナーの皆様、本当に数えきれない優しさを多くの方からいただきました。そんな中で一体私自身は何をしたのかを考えると、一つのことに集約できることがありました。それは「変わることを恐れずに好奇心を絶やさないこと」。生活が変われば自由に使える時間が変わり、制作スタイルを変えたり、使う画材も変える必要が出てきたり、発表する場所が変わればお客様の好みも変わるし、20代と30代という自身の年齢によっても作品の見られ方が変わったことも印象的でした。これらが変わることを拒んでいたら、ここまで続けられなかったんじゃないかなと思います。加えて、これからもこれを意識できたなら、未来でも表現も続けられるんじゃないかなと考えています。あくまでもこれは私の話、しかも仮説。まだ私も道半ばなので、答えではないですが、『ナガタユミ画家としての人生(仮)』37年が過ぎました。これからも変わり続けながら進んでいこうと思います。


最後まで読んでくださってありがとうございます

こんな私が、東京銀座6丁目プラスノーションさんにてグループ展に出品いたします

子供の妄想のような奇妙な世界観の絵画作品を展示します

動く仕掛けがある作品もあるので、ぜひ会場に足をお運びください

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

2023年6月12日(月)〜18日(日)

12:00-19:00(最終日17:00まで)

染色、ガラス作家さんとの3人展です

今回は「子供の頃の妄想のような奇妙な世界観」の絵画作品を制作しました

DMにもあります「ゆらゆら揺れる」のタイトルの通り、揺れる仕掛けのある作品も初めて手掛けました。ぜひ会場にて作品に触れてみてください!

在廊日は調整中です

東京銀座6丁目 銀座駅c3出口から徒歩3分

つかう たのしむ +ノーション

03-3575-4030

https://maps.app.goo.gl/tb21iB52pX6Y8UgN7?g_st=ic

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



展覧会、イラストレーションのご依頼も随時お待ちしています

ナガタユミでした

サポートしていただけるととても励みになります!