「GHQに禁止された」と言う前に読んでほしい日本の地政学史
先日、こんな記事を書きました。
古典的な地政学への批判点をまとめた記事です。
地政学への批判は根強くあるものの、読むのに時間がかかる文献が多かったり、そもそもの数が少なかったりで、あまり批判が届いていないように感じていました。そこで、できる限り平易に論点を整理しようとしたのがこの記事です。
けっこう反響が大きかったので嬉しいのですが、一方で誤解にもとづくコメントもいくつか見られました。
たとえば、「GHQが禁止した学問」というフレーズは、地政学を語る際にひんぱんに持ち出されます。これは正しいと言えば正しいのですが、いくらか注意が必要です。なぜなら、GHQが禁止した「地政学」は、現在の日本で広まっている「地政学」とはまったく内容が異なるものだからです。また、GHQによる地政学者の教職・公職追放は数年で解除されています。
このように、地政学の歴史は誤解されることが多々あります。通俗的な本において、地政学が「禁止された学問」、「悪の論理」といった刺激的なワードで紹介されてきたことが関係しているのでしょう。この記事では、地政学の歴史をたどりながら、地政学にまつわるよくある誤解を解きほぐしていきたいと思います。
注意
本稿では、現代における地政学の展開はほとんど扱いません。私の知識が浅く語れないというのも一つの理由ですが、「GHQが禁止した学問」というフレーズに代表されるように、現在の「地政学」イメージは、今なお近代の地政学に規定されるところが少なくありません。この記事は、そうしたイメージがどこまで正しいのかを探ろうとするものです。もっぱら学史の話に終止しているので、現代の国際情勢そのものに関心のある方は読んでもさほど面白みは感じられないと思います。ご了承ください。
なお、もともとこの記事は倍くらいの分量がありました。欧米の地政学史についても解説を入れていたのですが、あまりに長くなったため、日本編と欧米編に記事を分割しました。
この記事(日本編)単独でも内容は完結していますが、欧米の地政学者の名前があまり説明もなく登場するので、もう少し遡って知りたいという方は欧米編を読んでください。
1. 地政学の3つの流れ
まず初めに説明すべきなのは、「地政学」と呼ばれるものなかには、成立経緯も内容もまったく異なる複数の「地政学」が混在しているということです。それらの混同が多くの誤解の元になっている、というのが私の考えです。
では、それぞれの地政学はどのような内容なのか、順番に解説していきます。地政学は、大きく3つの流れに分けられると考えています。
一つは20世紀初頭に成立し、ドイツで広まった①大陸系地政学です。チェレーンやハウスホーファーといった人物が代表として挙げられます(ただし、チェレーンはドイツではなくスウェーデン出身です)。ドイツの地理学者ラッツェルによる、「国家にはそれを支える生存圏が必要である」という考えを思想的背景として展開してきました。
もう一つは、イギリス・アメリカを中心とする②英米系地政学です。現在、「地政学」と称する書籍の多くで紹介されているのは、英米系地政学の理論です。マハン、マッキンダー、スパイクマンといった人々が代表的な論者として挙げられます。英米系地政学はその成立期からドイツやソ連といった大陸の国々を仮想敵として想定しており、大陸系地政学とは対立する世界観を持っています。
この二者は、古典地政学(あるいは伝統地政学)と呼ばれます。第二次世界大戦終戦までに成立した古典的な理論を重んじるのが特徴です。古典理論は現在ではその問題点も多く指摘されているのですが、通俗的な地政学本ではもっぱら古典理論に依拠した説明がなされているのが現状です。
もう一つは古典地政学とは正反対のスタンスで、古典地政学の理論や各国の軍事戦略を批判的にとらえる③批判地政学と呼ばれる流れです。ベトナム戦争に対する反対運動などに起源を持ち、1990年代に研究潮流として確立された分野です。現在アカデミックな研究として行われている「地政学」は、批判地政学的なスタンスを取るものが多数派となっています。
実際はフランスやロシアにも別の地政学の流れがあったり、批判地理学にもいくつかの系譜があったりしますが、この記事の本題を語るにはひとまずこの3区分で問題ないと思います。
このなかで特に重要なのは、①大陸系地政学と②英米系地政学の違いです。結論から言えば、戦前は地理学者を中心に①大陸系地政学が受容されていたのに対し、戦後は一旦の「タブー視」を経たのち、地理学とは異なるルートから②英米系地政学が広がり始めました。
2. 京都帝国大学と地政学
2-1. 初期の動向
戦前の日本では、大陸系地政学のほうが影響力を持っていました。近代的な地理学はドイツを中心に発達してきたことから、日本の地理学者もドイツの理論を積極的に受容していたためです。
ドイツ地政学が導入される以前から、日本では地理学者による植民地研究が行われていました。早いところでは、現在も存在する地理学の主要な学会である東京地学協会が、日清戦争後に領有が決定した台湾について、小川琢治に地誌の執筆を依頼しています(三木 2010)。小川は京都帝国大学に日本最初の地理学教室を開いた人物で、湯川秀樹の父親でもあります。彼の専門は地質学でしたが、中国の歴史地理についても成果があり、戦時期には『戦争地理学研究』のような著作も残しています。
1910年代後半には、「地政学(Geopolitik)」の提唱者であるチェレーンの著作が邦訳され、1920年代には日本人による地政学研究も現れます。そして日中戦争がはじまった頃から、日本では「地政学」を冠した論文・書籍が爆発的に増えていきました。
2-2. 小牧実繁と「日本地政学」
その一つの中心となったのは、京都帝国大学地理学教室です。1938年に小牧実繁という人物が教授に昇進して以降、小牧とその指導学生を中心として、盛んに地政学研究が行われました。
小牧実繁はドイツ地政学を評価しつつも、欧米とは異なる「日本の主体性」を主張しました。彼の著作である『日本地政学宣言』には、次のような記述があります。
今の私たちからすると読みづらい文章ですが、「皇道」「翼賛」といった言葉から、おおよその雰囲気は掴めるかと思います。天皇を中心とし、西洋列強に対抗しうる新しい秩序を造る。小牧の言う「日本地政学」とは、当時の日本が主張していた大東亜共栄圏を、歴史と地理双方の研究から支えようとするものでした。
小牧やその教え子によって結成された綜合地理研究会は、日本の植民地を中心に、世界各国の地理的な研究を進めました。全15巻という壮大な構想で編纂された『世界地理政治大系』はその代表的な成果です(編纂は途中で終了)。
綜合地理研究会の活動資金を提供していたのは、参謀本部の外郭団体である国防研究会のさらなる外郭団体である皇戦会と、三井・三菱・大倉財閥の出資によって結成された国策会社・昭和通商株式会社です。すなわち、軍部と直接の関係を持っていたわけではありませんでした。綜合地理研究会が作成した地誌は陸軍の作戦計画に直接的に役に立つようなものではなく、むしろその地域への侵攻をどう正当化するかというイデオロギー的役割が大きかったという評価がなされています(柴田 2016: 94-97)。
また、京都帝大の卒業生は満洲の満鉄調査部や建国大学でも研究・講義を行い、「日本地政学」の思想を広める役割を果たしました。ただし建国大学では、満洲独自の地政学を打ち立てようとする動きもあったようです(柴田 2016: 262-293)。
3. 地理教育と国土計画
3-1. 日本地政学協会と地理教育
日本の地政学には、京都帝大とは別のグループも存在しました。1941年に設立された日本地政学協会です。
トップを務めた飯本信之(東京女子高等師範学校教授)は、日本でいち早く大陸系地政学を取り入れ、geopolitikを「地政学」と訳した人物です。同じく、同会評議員を務めた江沢譲爾(京都商科大学予科教授)は、戦時期のドイツ地政学の中心であったハウスホーファーの著作を翻訳して日本に紹介しました。江沢は経済地理学の研究者であり、現在でも高校地理で教えられるアルフレッド・ヴェーバーの工業立地論を日本に紹介した人物でもあります。
日本地政学協会は地理教育界と接点が深く、帝国書院が刊行していた教員向け雑誌『地理歴史教育』を発展的に解消させ、『地政学』という雑誌を刊行しました。日本地政学協会の事務所も、帝国書院の本社ビル(現在のビルとは異なる)の5階を間借りしていたようです(高木 2020: 141)。
戦時期の地理教育では、地政学的な内容も多く扱われました。そのため、「文検」と呼ばれる教員試験でも、地政学に関わる問題が出題されています。たとえば、第75回(1941年)では、「東亜共栄圏を資源の上より欧州及び両米と比較せよ」といった問題が出されています(高木 2020: 149)。日本地政学協会のメンバーは文検の出題委員と重なっており、当時の教員志望者は受験対策として雑誌『地政学』を講読していました。
3-2. 国土計画と地政学
日本地政学協会のもう一つの側面として、国土計画との関わりが挙げられます。江沢譲爾らは経済地理学の知見をもとに、人口や産業の合理的な配置について提言を行いました。『国土計画の基礎理論』(1942年)や『南方地政論』(1943年)といった江沢の著作には、当時日本軍の支配が広がっていた南方の国土計画についての提言が見られます。これは、ナチス・ドイツの国土計画に、中心地理論の提唱者として知られるクリスタラーが関与した(杉浦 2015)ことと似ています。ちなみに、江沢は戦後にクリスタラーの翻訳も行っています。
中心地理論に基づくドイツの国土計画は、内務省技師・伊東五郎によって1941年には日本に紹介されていました。都市計画家として著名な石川栄耀は、「生活圏構成論」という中心地理論によく似た図式を国土計画の手法として考案しています。生活圏はハワードの田園都市論などの影響を受けて考えられた石川独自の図式でしたが、偶然にもドイツで自説と似た理論が提唱されていることを知り、これを取り入れて自説を補強しました(杉浦 1996)。
京都学派の一人として知られる哲学者の和辻哲郎は、『風土』(1935年)の第5章第4節「ヘーゲル以後の風土学」において、以下のような記述をしています。
和辻の訳は、Geopolitikが学問というよりも政策としての意味合いを強く帯びていたことを意識したものです。地政学史を研究する柴田氏はこれを、「実はかなり本質を突いたゲオポリティク理解であった」(柴田 2019: 21)と評価しています。
4. 英米系地政学の受容
4-1. 海軍の教科書となったマハン
戦前の日本ではドイツ地政学の影響が強かった一方で、英米系地政学も一部で取り入れられていました。その中心となったのが海軍です。「シーパワー」を提唱したマハンの著作は、海軍の外郭団体である水交社によっていくつも翻訳され、海軍の教科書として利用されました。
マハンの『海上権力史論』が出版された際、アメリカに視察旅行に行っていた金子堅太郎はいち早くこれを読了しています。帰国した金子はその抄訳を海軍大臣西郷従道に紹介し、これがきっかけとなって翻訳が出版されました。マハンはのちに回顧録で、「自分の著作が一番多く翻訳されたのは日本であった」と述べていたそうです(麻田1977: 7-8)。
また、海軍軍人であった佐藤鉄太郎もマハンに傾倒し、それまで「陸主海従」であった明治政府の国防政策を、「海主陸従」に転換することを提唱しました。こうした主張から、佐藤は「日本のマハン」とも呼ばれます。しかし、彼の主張は海軍の予算増大を正当化するために無批判にマハンを援用しているとの指摘もあります(石津 2020)。
4-2. マッキンダーの知名度は…?
マハンに比べると、現在日本で地政学の中心と見なされているマッキンダーはそれほど戦前戦中の日本では広く読まれていたようには思えません。少なくとも、著書の翻訳はされていないはずです。ただし、マッキンダーの代表的な論文である「The Geographical Pivot of History(歴史の地理学的回転軸)」がイギリスのGeographical Journal誌に掲載された際には『慶應義塾学報』でいち早く紹介がなされていますし、その後も彼がケニア山に初登頂を果たしたことなどが紹介されているため、ある程度は認知されていただろうと思います。リサーチ不足なので憶測でしかありませんが、マッキンダーが地政学と結びつけて語られるのは、もっぱら彼を評価するハウスホーファーの著作が翻訳されて以降のことではないかと思います。
5. 地政学者たちの戦後
このように、戦前の日本では、京都帝国大学や日本地政学協会などいくつかのグループを中心として地政学研究が行われていました。そして彼らが参照したのは、海軍の一部を除けばもっぱら大陸系地政学でした。
5-1. 公職追放・教職追放
WWⅡ敗戦後、地政学を推進した地理学者らの多くは、公職追放・教職追放となりました。綜合地理研究会のメンバーも、以下のような理由で追放処分となっています。
このうち、小牧実繁は追放となる前に自ら辞職しています。また、小牧と同じく京都帝国大学に務めていた室賀信夫・野間三郎も辞職し、同大地理学教室の教員は一時期空席状態となりました。
一方で、地政学に関わっていても公職・教職追放にならない者も多くいました。日本地政学協会の飯本信之はその一人です。江沢譲爾は追放されていますが、彼とともに国土計画を推進した酉水孜郎(すがい しろう)は公職追放を免れ、1946年には新たに設立された国土計画協会の理事となっています。
満洲で活動していた地理学者も多くいましたが、彼らは公職・教職追放の対象にはなりませんでした。満洲からは去ることになりますが、その過半数は日本で再び教員を務めています(柴田2016: 351)。
このように、戦中に地政学に関わった地理学者は多くいますが、彼らがみな公職・教職追放になったわけではありません。また、公職・教職追放も1951年までには解除され、少なくない数の研究者が再び教員としての職を得ています。「日本地政学」を主導した小牧実繁も、追放解除後は研究職に戻り、後年には滋賀大学学長も務めています。
5-2. GHQによる没書処分
戦後、地政学に関わる著作の多くはGHQによって没書処分となり、全国の書店や官公庁などから回収・廃棄されました。この記事を書くにあたり、どのような本が没書になったのか、『連合国軍総司令部から没収を命ぜられた宣伝用刊行物総目録 : 五十音順』を(著者名だけですが)一通りチェックしてみました。
(こちらの個人ブログに没書となった地政学本のリストがあります。全体的な主張はこの記事とは正反対なのであまり紹介したくはありませんが…)
確認した限りでは、GHQが問題視したのはあくまでハウスホーファーやそれに影響を受けた「日本地政学」であり、マハンやマッキンダーのような英米系地政学は特に目をつけられた気配はありません。自陣営に親和的な英米系地政学の理論はGHQにとってそれほど問題ではなく、またそもそも没書にするほどの影響力を持っていなかったのではないかと思います。
また、ドイツ地政学のなかでも没書処分となったのはもっぱらハウスホーファーに関する本であって、チェレーンやラッツェルの名前は見当たりませんでした。国土計画との関係が深かったクリスタラーも、特に問題視された気配はありません。
ハウスホーファー以外に没書指定された外書としては、クラウゼヴィッツ、シュペングラー、ウィットフォーゲルなどの名前が見つかりました。いずれもドイツ(プロイセン)の人物です。ウィットフォーゲルは史的唯物論的な立場から地政学を批判した社会経済史学者であり、戦前にはハウスホーファー以上に翻訳されていました(渡辺 2017)。
マルクス主義は戦前の地理学でもわずかながら受容されており、小原敬士、川西正鑑といった経済地理学者らが戦前に地政学批判を行っていました。しかし、ウィットフォーゲルによる地政学批判の論文を翻訳していたはずの川西正鑑は、戦時期に入ると転向し、『東亜地政学の構想』(1942年)のような時局迎合的な著作を書くようになります(高木 2020: 64-69)。こうした川西との関係から、ウィットフォーゲルも没書となったのかもしれません。
6. おわりに
「地政学はGHQによって禁止された」というフレーズは、地政学を語る際によく用いられます。隠蔽された「悪の論理」という語りには、どこか陰謀論的な魔力があるのでしょう。
たしかに、戦後の日本では公職・教職追放や没書処分が行われました。しかし、地政学に積極的に関与していながらも、追放されなかった人物がいたこともまた事実です。また、没書処分も、もっぱらハウスホーファー関連のものが中心であり、その他の地政学者の翻訳書は没書指定を受けていません。その反面、地政学批判を行っていたウィットフォーゲルは没書になっています。
こうした事情を鑑みると、「GHQが地政学を禁止した」という言説は間違いではないにしても、世間的に想像されているよりはいくらか限定的な意味でとらえるべきではないでしょうか。マハンらの英米系地政学は、戦前にはすでに受容されていながらも没書の対象とはなりませんでした。
しかし一方で、戦後の日本において地政学がタブー視されたのは否定しようのない事実です。それは、GHQが禁止したからという以上に、戦争協力をしたという負い目が地理学者にとって大きなものであったからだと思います。公職・教職追放が早々に解除され、地政学に関わった人物がその後もアカデミズムの世界で影響力を持ち続けたことが、かえって地政学について語ることを難しくしたという指摘もあります(柴田 2020: 264)。
そんななか、日本におけるフランス地理学の普及に大きな役割を果たした飯塚浩二は、地政学への手厳しい批判を展開します。地政学=環境決定論というイメージの形成は、ドイツ地理学に批判的であった飯塚によるところが大きいと思われます(戦前にもあるにはありますが)。
地理学会では地政学に対する抵抗感が根強く残るなか、1970~80年代には政治学の方面から、地政学の「再発見」が行われていきました。倉前盛通『悪の論理』や、曽村保信によるマッキンダーの翻訳などを契機として、日本で再び地政学が流行していきました。
地政学(Geopolitik)をタブーと見なす考えは、戦時期の英米におけるハウスホーファーのイメージが大きく影響しています。しかし、その経緯が忘れられたのち、皮肉にもそのハウスホーファーを忌み嫌っていたマッキンダーが、地政学の代表のように捉えられていきました。
このように、地政学の歴史はいくつものねじれを抱えています。地政学を批判するにしても、擁護するにしても、その歴史的経緯を踏まえておくことは重要です。
ただ、そんなことを言っておきながら、この記事には大きな欠陥があります。それは、もっぱら地理学の立場からしか地政学を語っていないという点です。地政学史においては、政治学者が果たした役割も無視することはできません。農商務省官僚であり政治学者でもあった藤澤親雄はいち早くチェレーンの翻訳を行っていますし、彼の師であった小野塚喜平次はラッツェルに着目し、チェレーンと似たような政治学体系を作り上げています(春名 2020)。本稿では政治学における動向をほとんど拾い上げられていないことをご留意ください。
また、地理学に関する記述についても、既存の研究には基づかない私独自の主張も含まれている点にご注意ください。GHQの影響は言われているほどではないのでは?というのが結論ですが、もしかすると勇み足かもしれません。認識不足があれば、遠慮なくご指摘いただけると幸いです。
永太郎(Twitter:@Naga_Kyoto)
参考文献
特に参考にした文献
『現代地政学事典』編集委員会 編(2020)『現代地政学事典』丸善出版 人文地理学・国際政治学の立場から書かれた事典。古典地政学を批判的にとらえる立場から、現代の地政治を読み解く方法論について解説されている。
春名展生(2020)「日本の国際政治学と地政学」240-241頁
柴田陽一(2020)「地政学者の現代的(再)評価」264-265頁
柴田陽一(2016)『帝国日本と地政学―アジア・太平洋戦争期における地理学者の思想と実践』清文堂
京都帝国大学を中心とした戦時期の地理学史。主に2において参照。表紙のデザインが秀逸だったので、サムネはそれを真似てみました。
高木彰彦(2020)『日本における地政学の受容と展開』九州大学出版会
日本の地政学史を学ぶのであればおそらく最も参考になるであろう本。主に3で参照。
その他
麻田貞雄(1977)「歴史に及ぼしたマハンの影響:海外膨張論を中心に」(『アメリカ古典文庫 8 アルフレッド・T・マハン』研究社出版, 5-48)
石津朋之(2020)「海を制する者は世界を制す?—―マハン」(庄司潤一郎・石津朋之編(2020)『地政学原論』日本経済新聞出版, 119-154頁)
小牧実繁(1940)『日本地政学宣言』弘文堂書房
柴田陽一(2019)「日本における訳語「地政学」の定着過程に関する試論・補遺」『空間・社会・地理思想』22, 17-28頁
杉浦芳夫(1996)「幾何学の帝国:わが国における中心地理論受容前夜」『地理学評論』69, 857-878頁
杉浦芳夫(2015)「中心地理論とナチ・ドイツの編入東部地域における中心集落再配置計画」『都市地理学』10, 1-33頁
三木理史(2010)「日本における植民地理学の展開と植民地研究」『歴史地理学』52, 24-42頁
渡辺敦子(2017)「『移動する理論』としての地政学:戦間期日本における展開と地政的想像」アルザス日欧知的交流事業日本研究セミナー「東京」報告, 1-12頁
和辻哲郎(1935)『風土』岩波書店
地政学史についてはこちらの記事もコンパクトにまとまっていますのでご参照ください。
柴田陽一「戦前戦中の欧米諸国及び日本における地政学の動向」『グローバリゼーション下の国土計画を考える:東アジアとの交流の深化を踏まえて (調査業務)』2014年, 112-144頁