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【俳句雑感】言葉が言葉を呼び、拓く世界~100分de名著「百人一首」第2回を観て

※以下は、筆者の私見であり備忘録です。間違いなどある場合はご容赦くださいませ。

現在、NHKのEテレ「100分de名著」では「百人一首」が取り上げられています。
先日放送の第二回では枕詞や掛詞、縁語や見立てなどの和歌のさまざまな技巧が紹介されていました。
31音を細かく見ていくとさまざまな技巧が繊細に組み合わされており、短い音数の詩型を存分に生かし、世界を膨らませるための効力の素晴らしさがよくわかりました。

番組では、和歌の主な技巧として下記4つが紹介されていました。

・枕詞:ある言葉を修飾する(「ちはやぶる」→「神」)
・掛詞:同音異義語を使って一つの言葉に二つ以上の意味を持たせる(「刈り根」と「仮寝」)
・縁語:言葉から連想される意味とつながりを重んじた技巧(「難波江」と「澪標」)
・見立て:あるものを別のものに譬える(「初霜」と「白菊」)

これら4つの共通点は「ある言葉が別の言葉と繋がり、読者の共通認識(イメージ)を作る。そのことで新たな詩の世界を現出させるとともに実際の景を知らない読者にも想像できる映像を提供する」と思います。

そして、この共通点「ある言葉が別の言葉と繋がり、読者の共通認識(イメージ)を作ると同時に表現上における新たな詩の世界を生み出す」は私が関わる俳句の「取り合わせ」の技法とも通じるものがある考え方なのではないか、と思いました。

俳句にはさまざまな取り合わせがあります。
季語と季語以外の言葉の距離により、17音がもたらすイメージや印象も変わります。
例えば、双方の距離のバランスが程よいものならば

猫たちも夢をみるらし実千両 森田緑郎

季語以外の言葉たちは季語(実千両)と直接関係はありません。しかし、猫たちの眠りの背景に実千両の赤が寄り添い、結果的に互いに異なるイメージながら補完し合って冬の空気と小さな命の息吹をリアルに読者に感じさせ、共感できる映像を生み出していると思われます。

一方、遠いものならば(二物衝撃の作品として有名な)

鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨

上の句よりも季語と季語以外の距離が大きく両者の関係性も不明なため、俳句講座でこの句を紹介すると「?」という顔をされる方もしばしばおられます。
かくいう私も最初の頃は「どういう意味?」と思いました。
現在は鰯雲の細かい雲と秋夕焼の色に苦悩が映し出され、それがそのまま下の12音の感情の吐露に繋がり、抜き差しならない作者の姿が見えてくる作品と思います。
このタイプの取り合わせの場合、意味や理解ではなく言葉がぶつかり合った(衝撃)で生まれた世界の新しさに目を凝らせばよいと思います。この作品で、私は取り合わせの不思議な面白さに開眼しました。

他には、番組の中では言及されていませんでしたが、和歌の世界では技巧と共に桜や月、雪(雪月花)などの季節の「本意」もまた詠むうえで重んじられていたことは想像に難くないでしょう。

その考え方は、俳句の世界でも現在まで脈々と受け継がれています。
春になって大体の俳句関係者は「桜(花)」で詠むことが多いと思いますが、その時に「はらはらと散る美しさと儚さ」という本意が頭のどこかを一度は過るのではないでしょうか。
あるいは意識していなくても、詠むときにそのイメージがふいに浮かぶこともあると思います。

この「本意」という考え方があることから、俳句を作る際に「ある季語を見て(感じて)、その季語が本来持つ意味に合った言葉を組み合わせる」ことを重んじる側面・傾向があります。
そのことは、先述の和歌の技巧のもつ「ある言葉が別の言葉と繋がり、読者の共通認識(イメージ)を作る。そのことで新たな詩の世界を現出させるとともに実際の景を知らない読者にとっても想像できる映像を提供する」という性質ともどこかで関係があるように思われます。

だからこそ、現代の俳句では「季語の本意をあえて外して(無視して)」作る流れも強くなっているのかもしれません。
現在は季語や本意に対してあまりにも共通認識やイメージが強くなりすぎているので、手垢のついた発想の17音を量産するのではなくオリジナルな表現を切り拓くためにはそういった方法を取らざるを得ない側面のあるのかなあと思ったり。あるいは季語に見立ての要素の比重を強くして使ったり。

(私個人はなるべく季語を尊重して使いたいしそれが基本と考えています。でも、場合によっては本意を外したり見立ての要素を強めて使うこともあります。そうしないと言えないこともあるので)

また、時代と共に季節も気候もめまぐるしく変わってきています。季語や本意についても一度見直すべき時期に来ているのではないかも……などと思ったり。

話が逸れました。

何かを言うには短すぎる型を逆手にとってさまざまに発達・進化した和歌の技巧。
その卓越した技巧があるからこそ、和歌から連歌、俳諧と続き、短歌や連句、そして俳句として今日まで生き残り続く五七調の型。

「百人一首」第二回を観て、そんな先人たちの技巧に今の我々も使う表現の素晴らしさを具体的に再確認するとともに、その試みと工夫に感謝したくなり思わず本稿を書いた次第です。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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