やりきれない存在と今であっても:福本啓介句集『保健室登校』
いろいろと句集をお贈りいただいているのに、全然触れることができず申し訳ない思いばかり。大変遅くなりましたが、少しずつnoteで感想を書かせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
まず、感銘句より。
桜しべ降る中夕方登校す
十代といふ闇にゐて涼しさよ
目見開き内なる冬を見つめをり
小春日の昨日に我を置いて来し
さくら咲き記憶喪失終はりけり
親ガチャにハズれたと君汗拭ふ
四月来る長欠の子の机にも
本句集のタイトルは「保健室登校」だが、ページを捲っているとそれ以外にも「別室登校」「図書室登校」「オンライン登校」なども出てきて「随分いろいろな登校の名称やスタイルがあるんだな」と素直に驚いた。
そして、それだけ現在の「学校」というものがある意味「やりきれない存在」になっているんだな、と思った。
詳しくは書かないが十代の私にとって、教室も学校も友達も先生も好きだけど大嫌いな、輝かしい部分もおぞましい部分も内包した存在だった。
今、十代だったら確実に引きこもりになってたと思う。
だから、若い頃に戻りたいとは思わない。むしろ、大人になって精神的に救われたし、大人になってからの方が生きていることが面白いと思えるようになった。
かつての私がそうだったのだから、今の十代はいかばかりか…と思うと苦しくなる。
句集に話を戻すが、生徒との日々を17音として掬い上げることで作家自身も救われることが多かったのではないかと、読後思った。
人は往々にして無意識のうちに他者や周囲の中に自分に通じるもの(あるいは共感できる要素)を見る。
本句集の作品たちは確かにありのままの現在の学校の姿であり生徒や教師、保護者達の姿でもあるが、作家自身の思いや願い、祈りも季語や言葉の中にそこはかとなく滲んでいるように思われる。
表現として浄化させることで作家自身もリセットされ、新たに世界と対峙し歩き出すことができる。
そんな恩恵が表現行為にはあるのだな、と思う。
本句集は著者の第一句集。
私が所属する「炎環」と同じ加藤楸邨門下である「杉」元同人、森澄雄氏に師事。
どうやらご近所にお住いのようで、世間は狭いなあと思う。
現在も教職におられるようだが、今後も生徒に寄り添う俳句を詠んでいただきたいと思う。
ご恵贈、どうもありがとうございました。