なりたい自分になれてる?(2)
1月に入り学期末テストをさっさと済まそうと思い一般教養はカンニングにつぐカンニングでなんなくクリアする。大阪芸大は勝手な偏見だが、とりあえずなんか作って卒業すればいい感じです。(スーパー思い込み)
実習で京都撮影所に連れて行かれ、しばかれ働かされたのがトラウマになり、こんなスパルタ世界に行ってたまるか!と逃亡することにしました。 撮影ロール「1」を撮影したフィルム缶に書いてると勝新組の鬼の渡辺撮影監督が目が悪く「7」に見えると言って三脚のパン棒でしばかれました。 ザハトラーのヘッドだったと思われる鉄の棍棒です。20歳にもなってしばかれるってあるんだね・・・と山田くんとしみじみ語ったものです。
さて、中国語のテスト・・・なぜか僕だけが残され再テストを受けさせられギリギリの点数をつけらえ居残りって大学生でもあるんだ〜と夕暮れに沈む富田林の山々を眺めていました。
一応、親父にもヤスオを連れて行ってみようかな〜みたいなことを言ったら反対された。
予想通りの展開なので、黙って連れて行くことにした。母親は賛成し、中国やチベットは寒いと思いホッカイロをヤスオのカバンに詰めていた。それを僕は「ゴミになるからいらない減らさないと旅ができない。」と言ってホッカイロを捨てさせるのであった。
所持金が1人約10万円と僕は予備で4万ぐらいとJCBのカードが1枚。
当時はデジタルカメラがまだ性能がよくなったので、フィルムカメラを持って行くことにした。
「旅行人」を読むと寒さで電池が放電してしまい電子シャッターが切れなくなると書いてあったのでマニュアルシャッターの手巻きカメラをヤフオクでゲットした。
そして・・・僕は中国に日本のサラリーマンがやってきた設定にしようと思いスーツで行くことにした。タイムマシンがあるなら間違えなくこの時にもどって「命取りになるぞ!」ビンタしたい。
さて行程は約1ヶ月、当時のビザは1ヶ月ビザが六千円ぐらいだった覚えがある。大阪の南港からフェリーで上海までいくことにした。
週一の定期便「蘇州号」金曜日のお昼に出発し日曜日の朝上海につく。二泊三日で到着前にビザ発給が船内で行われる。免税のせいかビールが安いのが記憶に残ってる。2等室Bいわゆる雑魚寝の船底の部屋でもっとも揺れがひどいが学割でもっとも安かった。キャンペーンかなんか18000円往復でビザ代いれても24000円だった気がする。当時はLCC便などなかったので飛行機を使うという選択肢はなかった。
船に乗り込むと、バックパッカー学生がワイワイとしている。少なからず、大阪芸大生も中にはいた。その学生青春旅行の輪の中に入らない僕らは、彼に一瞥くれて独立独鈷を貫くのであった。
1日目の晩御飯は、食堂でせっかくだからなにか食べてみようと思い僕は「パーコーメン」を頼んだ。ひらがなで、「とんかつらーめん」と書いてあったが。食べてみると、味がしない・・・。お湯の上にトンカツが浮いてるだけでしたに湯がいた麺があるだけで、絶対出汁を入れ忘れているはずだ!と思い調理師に抗議してみたが調理室のあかりを消されて閉店してまわれました。いまだに忘れません、いつかもう一度のったらもう一回パーコーメンを頼んでみようと思います。
当日は大シケで外洋に出た瞬間から揺れに揺れまくる。
学生青春旅行バックパッカーは全員船酔いでノックアウトで船内は静かになった。ざまぁねーなと思ったが、むしろ立ってられないぐらい揺れていた。
船底の部屋は、寝てても転がるぐらい揺れまくり中井ちゃんとヤスオはもれなく船酔いになりトイレのお世話にずっとなっており下船するまで飯をそのあとまともに食べてなかった気がする。
僕は船酔いしない秘訣を編み出していた・・・。
船内には「これから波を超え12m落ちます、どこかにおつかまりください!」とアナウンスされていた。
この荒波を自分が泳いでることを想像することで船酔いを僕はしなかった。
ぜひこれを読んだ方が試してほしい・・・。
脱水症状ばりに皆疲れ果てていたが日曜の朝9時ごろに到着した。
ふらふらになりながら、上海のバックパッカーの聖地、1846年にできたという中国で一番古いホテル「上海浦江飯店」へと歩いて向かう。
とても雰囲気のある建物で大嫌いな上海で唯一好きな場所だ。
8人部屋のドミトリーに何日もとまった。
中にあるシャワー室は、まるでガス室みたいな作りで閉じ込めらえて殺されそうだ。
ホテル勝手口には、首長族がお土産をうっておりすぐにお金を恵んでくれというのだが僕には一切声をかけてこない。なぜだ?と聞いてみたら「くれなそう」と一言いわれた。失礼なやつだ。
まだ浦東の街が完全にできおらず対岸の街には人がほとんどいなかった。
上海外灘は流石に綺麗だったが、路上には物売りのババァがたぶんそれ数年前から煮込んでるだろ?っていう卵を売っていた。そうして気になって買ってしまった・・・味は意外にも美味しかった。
チェックインを済ませ夕方まで時間があったので上海駅まで歩いて電車のチケットを買いにいくことにした。当時は、国際携帯電話などもってなかったので紙の地図とガイドブックだけが頼りだ。
約1時間以内には歩けば着く。
歩き始めて、20分ほどで目がチカチカしてきてぶっ倒れそうになった。
光化学スモッグにすっかりやられて歩けたもんじゃなかった。
空気の悪さが半端なかった、こんなとこに住んでる中国人半端ねーなと関心した。
くらくらしながら、タクシーを拾って上海駅までいくことにした・・・。
当時の街は新しくなり始めるころで屋台の摘発やレンガ作りの住居がどんどこぶっ壊されていた。
なぜか散髪屋がおおく、天井がない路上の壁に鏡だけある店もありたくましいと思ったものだ。こんな景色もすぐにみれなくなるのだろうと思うと少し悲しくなった。
上海駅についた時にみたのは膨大な人間がずらーーーと並んでチケットを大声で買っていた。あとからどんどん抜かしてくる奴もいるし順番を売るやつもいてカオスだなと思ったがおとなしく並んだ。
たぶん1時間は並んだ気がする。ようやく僕らの番になり拙い中国語と筆談でチケットを買い求める。
チベットの入り口の街青海省西寧まで。しかし、目当てのチケットは当日から明後日まで全て売り切れてしまった。コンパートメントの4つ部屋の高いチケットしか買えなかったが悩んでる暇はない。むしろ後ろの並んでる人らの殺気が半端ない。ここでまごまごしてると、しばかれそうだ。
そうやって、上海1日目が終わろうしていた・・・
宿にはさすがに、タクシーで戻った歩ける気がまったくしなかった・・・。
適当にラーメンでも食べるかと思ったらラーメンってのが中国にはないことを生まれて初めて知った。なので麺っぽい食べ物で外から作ってるのがわかる食べ物をさがして店に飛び込んでみるの繰り返しがこの旅ではつづく。
そういえばここに至るまで弟が喋った記憶がない・・・。
つづく
40才になったので毎日書く修行です。