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なりたい自分になれてる?(1)
関目の風呂屋で生まれ、東大阪で育ち、大阪で産業大学付属高校に通い大学も大阪芸大、最初の勤め先も大阪とどこまでも関西人、THE大阪。24歳まで東京にでようとは思わなかったぐらい大阪が好きだったわけでもないけど、外で出るのを躊躇っていた。
その躊躇いはほぼ時間の無駄だったと今となっては思う。
チャンスがあれば外に出た方が身のためだとおすすめしている。
できるだけ遠く誰もいない場所へ行った方がいい。
僕は、「過去の写真」全部を千葉の東金の浜で焼いた。
残念ながら記録呼べるという写真が手元にない。
子供にせがまれても僕の写真はほとんど残ってない。
なので過去に行けばいくほど記憶を呼び戻すのに時間がかかる。
その中でも大学生活は断片的にしか記憶に残っていない。
**大阪芸術大学映像学科「V98ー126」が僕の番号だ。 **
ちなみに同窓会には一度もよんでもらったことはないし友人はおそらく7人もいなかっただろう。
いつも一緒にいた友達は、最後にはたった3人だ。
あ、僕入れて3人なので2人か・・・・。
中井ちゃんと山田くんの2人だ。
山田くんは卒業してから会ってない、たしか就職浪人したんだったかな?
むしろ家が大変で卒業できなかったんだっけ?
覚えてないないけど笑いに厳しい面白いやつだった。
ノリツッコミが際立っていておすぎとピーコのどっちか忘れたけど口説かれた伝説を持つミッシェルガンエレファントが大好きな山田くん。これを見てたら是非連絡が欲しいところだ。
中井ちゃんはニヒルなやつだが一番仲のよかった友人でもあり今でもたまにあう。
この前は数年ぶりにあったがあいかわらずな感じでいつも変わらないぶれない奴だ。
結婚式には呼んでくれなったのでなんでだ?と聞くと「谷内田さんめっちゃブラックやんダークグレーやん」と気を使ってくれたらしい・・・。ちなみに祝儀はあげたぞ。
NHKを中心にドキュメンタリー監督として立派にその道を進んでる。
嫁には一度もあわしてくれないけど。
他の友人は、ワキガのイケメン森本くにお。
背の高いやつで親がたぶん金馬賞の編集賞をとった、ドラマー名前は忘れた。
ほかも会えば思い出すかもしれないがほとんど忘れてしまってる。
友人関係が薄かったし僕はほとんど学校に必要最低限以外は行ってなかった。
僕は大学2年生の終わりにもなると、駐車許可証を偽造して売りさばいて車で通っていた。
カローラの白だったが、朝新聞配達するバイクに横を思いっきり当てられ運転席のドアが外から開かなかったのでいつも助手席から乗り込んで不便な車だった。
デジタルで映画を撮ると宣言したジョージルーカスがEP1を撮った年だ。
それに触発されて、フィルムなんかで学んでる場合じゃね〜となりデジタル編集ができるように機材をそろえることにした。コピーソフトを売りさばいた資金がありデジタルビデオカメラとmacG3を買い揃えた。
早速、自主映画なんかやってると金だけ掛かって回収なんてできないと僕は考え演劇をやってた経験から映像制作とイベント企画会社をやろうと考える。
まずは社名だ・・・・。
幾度となく意見が交わされといってもたった3人だけど。
2つに絞られた。
**最初の案は・・・ **
千日前のウェンディーズで打ち合わせしてたのでインパクトのある外人の名前がいいということで「スーザン」
人気はイマイチだが、他の名前が負けてしまうぐらいスーザンは強かった。ダサさは天下一品だが。
**もう一案は・・・ **
日本っぽいのがいいとなり「腹切芸社」となった。ごろ感もよかったので結果アメリカ「スーザン」は寸でのところで負けを記すのであった。今でもスーザンは僕は気に入ってる。50代くらいのババァがエプロンして鍋でクリームシチューをつくってるのがロゴのイメージだ。
営業は僕の役目で、いくつか案件をゲットしてきた。
ヘアサロンのヘアーショーイベントとPVの仕事だ。
とりあえずショーっぽいことを完遂させるべく動いた。まずは編集自体初めてだったがとりあえず撮ってセンスよくかっこよくつないでみた。それを書き出すことが当時やり方がわからなかったのでタイムラインをそのまま走らせてセカンドモニターのVGAのアウトをプロジェクターにつないだ。なんとかなるもんだ。
照明や音楽は演劇公演をやってたので全然苦労はなかった。最初の仕事が何十万かになった覚えがある。
でも主催者のイキってるダブルシザーを扱うヒゲのおっさんに打ち上げの時なぜか殴られる。
「生意気だ!」と言われてさっぱり意味不明だったがとりあえずこれで実績が1個できた。
次にその実績をまとめて、ヘアサロンを回った。苦もなく次から次に案件がとれた。
企業PVらしき仕事もこなすようになった。
そうして、売り上げが見え始めたころだった・・・。
僕はあい変わらず必要最低限な授業にしかいかず、必須科目の第二外国語を2つ韓国語と中国語を取っていて韓国語は朝1番の授業だったこともあり車が渋滞してしまうので毎度間に合わず結果単位を落とすことになり、中国語だけが残った。
なぜか僕は授業で女の先生から目をつけられいつも注意されていた。
ふざけてたわけじゃないんだけど。
その授業に1番成績のよかったちょっと小太りの重綱くんがいた。
ある日僕のとなりの席に座りノートに牛の絵をせっせと書いてる。
**「それ牛?」って僕が聞くと「ヤクだよ。」と言った。
「ヤクってあの天空の城ラピュタに出てくるみたいの?」
「そうだよ、チベットにはたくさんいるよ。」 **
そういって、重綱くんはチベット民族の写真を僕に見せてくれた。
色鮮やかな衣装に日に焼けた肌のチベット族が目を細めてこちらをじっと見つめている。
それは大学3回生の12月ごろの試験前だったと思う。
中井ちゃんが「俺らはいま働く必要あるんか?卒業してからも働くのに。」と言い
僕もそうだなと思い「じゃ腹切芸社は解散しよう」
機材のローン残債とか全部精算して残ったお金をもとにチベット旅行にいかないか?と誘った。
学生旅行といえば、タイとか日本一周とかなんか青春まっさかりな場所は避けたかった。
どうせなら誰もあまりいかない場所がいい。
重綱くんから紹介されたチベット旅行ガイドブック「旅行人」をさっそく買い読んでみた。
**地図のところをよく見ると「※1月から3月までは旅行シーズンではない。」と書いてある。なら行けば誰とも会わない可能性がある!と考え出発は2月の授業終わりから行こうと計画した。実際このルートでバックパッカーの旅行者さえ一度もすれ違うことがなかった・・・。 **
道連れに・・・
当時中学1年生になった一番下の弟”ヤスオ”はあまり喋らず自閉症か?と家族が疑うレベルだった。
荒療治で旅行に連れて行けば意思表示をするのではないか?と考え親父には黙って連れ行くことにした中1の期末試験があるのでいけないと言ったが「休め」と言って強制連行した。
重綱くんに旅行のアドバイスを聞いたが覚えていたのはチベット自治区の真ん中の町「ジュクンド」にチベット人の彼女がいるという情報ぐらいだった。たぶん他に言われたかもしれないがまったく覚えてない・・・。
画して、「チベット旅行」が計画されガイドブック1冊だけを頼りに中一の弟と中井ちゃんの3人で行くことになった。
そういえば山田くんは「アホか!そんな怖いとこ行けるかボケ!」と言って来なかった。
つづく
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