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フィル・リノット激怒/「ゲイリー・ムーアのこと聞くんじゃねぇ」

どこかの誰か
「はい論破!」

わたし
「戦前のコメディアン?」
(それは”ロッパ”だよ。)

「下心満載の飲み会?」
(それは”コンパ”だってば。)

「頭にお皿のあるヤツ?」
(そりゃ”河童”だよ。
いい加減にしろ!)

「こりゃまた失礼。」

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(敬称略)

「Player」誌
1980年2月の記事です。

来日した
シン・リジイ
「フィル・リノット」。

どのインタビューでも
直前に辞めた
ゲイリー・ムーアのことばっかり
質問されて
心底頭にきてたみたいです。

(でもさ
普通聞くよね?

聞かなきゃ
インタビュアー失格だよ。)

ここでは
ゲイリー・ムーアのことを
「クソミソ」にこき下ろしてます。
(途中からスコット・ゴーハムまで
調子に乗って参戦。)

でも
われわれは
フィル・リノットとゲイリー・ムーアの関係が
これで終わらなかったことを
知っていますから
(今なら)
笑って読むことができます。


ゲイリー・ムーアの
「穴埋め」として
何で「ミッジ・ユーロ」が
選ばれたのか。

この(↓)記事を読んでも
肝心要なところは
不明確なままです。

冷静に考えたら
ゲイリー・ムーア・レベルの
ギタリストが
そんなに容易く見つかるはずもないわけで。

よく難局を
乗り越えたと思いますよ。

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シン・リジィ(Thin Lizzy)は1979年、
ゲイリー・ムーアが急遽脱退したため、ウルトラヴォックス(Ultravox)のミッジ・ユーロ(Midge Ure)を緊急代役に起用して来日公演を
行いました。
ミッジ・ユーロはLouderの新しいインタビューの中で、この当時のことを
振り返っています。

「フィル・ライノット(Phil Lynott)とは1975年頃にグラスゴーで
初めて会った。
当時、僕はスリックというバンドで演奏していたんだけど、
トランジット・バンを運転していたら、フィルが一人で道を
歩いているのを見かけて、車を停めて自己紹介をしたんだ。
その日の午後、彼はどこかで食事をして一服しようと外出していたので、
僕の実家に招いて、母が食事を作ってくれて、音楽の話をしたんだよ。

その1年後、スリックはロンドンのニュー・ビクトリア・シアターで
演奏していて、フィルは病気だったんだけど、
ライヴに来たスコット・ゴーハムとブライアン・ロバートソンに
サイン入りの詩集を持たせていた。
すごく親切だと思ったね。
翌年の1977年、僕はロンドンに移り住み、リッチ・キッズ
(元セックス・ピストルのベーシスト、グレン・マトロックが結成した
バンド)に加わり、たまたま地下鉄の駅でフィルと再会し、
それ以来、リッチ・キッズの解散を経て、僕がヴィサージや
ウルトラヴォックスを続けている間も、仲良くしていたんだ。

フィルは『Black Rose』に収録されている“Get Out Of Here”の
共作のクレジットを僕にくれた。
というのも、彼がこの曲をジャムっていた時、たまたま僕は彼の部屋に
いて、一緒に歌っていただけだったんだ。
僕は人生で一度も共作をしたことがなかった。
気が利いているよね。

1979年7月、僕がウルトラヴォックスの最初のアルバムを
制作していたとき、ゲイリー・ムーアが脱退したので、
リジィがジャーニーとのツアーを終えるためにアメリカへ来て
手伝ってくれないという電話がかかってきたんだ。

“Boys Are Back In Town”が向こうで大ヒットしたこともあって、
リジィはどこでも大受けだったし、フィルは僕を兄弟のよう
にかわいがってくれた。
後でスコットに聞いたんだけど、彼は僕が全曲知っているとバンドに
信じ込ませていたそうだよ。
僕は全然知らなかったんだけど、バンドに溶け込むために
一生懸命働いた。
楽しかった? もちろんだよ、今までで一番!

ロンドンに戻ったとき、アイルランドと日本での公演のために、
リジィは一時的にデイヴ・フレット(マンフレッド・マン・アース・バンドのメンバー)をギターに起用したんだけど、フィルは僕にキーボードを
弾くために残ってほしいと頼んだんだ。
デイヴがうまくいかなかったときのための安全策だったと思うよ。

フィリップはちょっと、なんでも集めたがるのような人で、
音楽の流行に乗り遅れたくないとも思っていて、シン・リジィに
キーボードを取り入れることができるかもしれないと考えていたと思う、
実際には全くなかったけどね。
誰も僕のキーボードは聴くことができなかったけど、
彼らが僕を必要とするならば、僕は喜んで日本へ行くよ。

日本は素晴らしい経験だった。一番最初の記憶は、
最初のホテルに入って、女の子たちがみんな“ミッジ!”と
叫んでいたときのフィルの恐怖の表情。
リッチ・キッズは日本に行ったことはなかったけど、
僕たちはピンナップ誌で有名だったんだ。
だってかなり可愛い男の子だったからね、
だからその子たちはみんな僕を知っていた。
フィルはちょっとムッとしてたかな!

ツアー全体が奇妙なものだった。
まず、どのバンドも言っていることだと思うけど、観客の反応。
爆発的な拍手喝采を受けたと思ったら、3秒後にはそれが途切れて、
観客はただ座って僕らを見て次の曲を待っているんだ。
リジィのメンバーは誰もそれに慣れることができなかった。

プロモーターがフィルに、照明のトラスが2つではなく1つしかないこと
を告げた。
プロモーターは謝罪していたけど、当時は多くのツアーがあったため、
日本には他のトラスがなかったと言っていた。
すると、フィルは爆発して、完全に我を忘れてしまった。
彼は“もう帰る、空港に行くぞ”と言って出て行ってしまった。
彼はいつも物腰の柔らかい人だったので、僕はびっくりして、
車に乗ってから、“フィル、大丈夫?”と言った。
彼は振り向いて微笑みながら“あのトラスは1時間後には着くよ”と言った。
そして、その通りになった。
そのとき、“この人は、ちゃんとわかっているんだ”と思ったのを
覚えているよ。
腹を立てたふりで、僕たちが望んでいたものを手に入れたんだ。

楽しい旅だった。
(音楽ライターの)ハリー・ドハーティと
(写真家の)チョーキー・デイヴィスが一緒だった。
すべてが一瞬の出来事のように思え、すべてが記録されていた。
フィルがラジオ局のインタビューに行くとき、彼は僕を連れて行き、
途中で“よし、今度はウルトラヴォックスのことを話せ”と言うので、
僕は自分のバンドの宣伝をすることができた。

夜はいつもクラブに行っていた。いつもゴージャスな若い女性が
たくさんいて、僕らを楽しませてくれた。
日本ではより強いもの(※ドラッグ)を手に入れることが難しかったので、 酒を浴びるほど飲んだ。

フィルは、ちょっと場違いな感じがしたようだ。
彼は外国の食べ物が苦手で、プロモーターが連れて行ってくれた
美味しい日本食レストランでは、
床にあぐらをかいて座らなければならなかったんだけど、
フィルはそれができず、長い足をまっすぐ伸ばして座り、
食べ物をつまんでいたのを覚えているよ。

僕にとっては、あの旅は学生時代の夢だった。
初期のシン・リジィを観て惚れ込んだ僕は、わずか数年の間に
東京と大阪で、フィルと並んで立って“The Boys Are Back In Town”を
演奏している。
これほどクールな人生はないよ!」

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