88年の秋、ある一日
新元号が『令和』に決まった。
30年前、『平成』のときは何をしていて何を感じたか。
思いを馳せている人も多いと思う。
わたしは当時、富良野塾の塾生だった。
富良野塾とは、役者とシナリオライターを養成する脚本家・倉本聰の私塾である。ドラマ『北の国から』のような手作りの丸太小屋に住み、皆で共同生活を送っていた。
新聞もテレビもない場所だった(正確にいえば郵便は配達されていたので、新聞は個人で希望すれば入手することはできた。テレビもあったがもっぱらビデオ鑑賞用。塾地が谷の奥地にあり、電波が届かなかった)。世間のニュースが届くまでにタイムラグがあり、何ごとも「へえ、そんなことがあったんだ」と人づてに聞く程度で、だから『平成』になったことも、後から知った。もちろん小渕さんの会見も観ていない。その日のことはまったく記憶にない。
憶えているのは、その前年の秋。
昭和天皇の病状が深刻になった頃だと思う。お亡くなりになったら天皇の崩御に国民は喪に服すから、にんじん工場が1日でも休みになるんじゃないかと、非常に不謹慎だけれど、とても期待した。
塾生は、生活費を自分たちが働いたお金で賄う。
農協と契約して、農家の手伝いをしたり、にんじんや玉ねぎの工場で働くなどして日当をもらい、日々の糧にしていた。まだ夜も明けきらない早朝から、牛舎で乳牛や肉牛の餌をやり、糞尿を掃除する仕事もした。当時はバブル景気の真っ只中だったから、どこも人手が足りず、都会から来たばかりのまったくの素人だったわたしたちも、働き手としてフル稼働していた。オフと呼ばれる休日は、月に一度だけだった。
休みたい。映画を観たい。髪を切りに行きたい。
工場の二階で、せっせと段ボールの箱を作りながら、オフになったら何をしようかとそればかり考えていた。入塾して半年、慣れない農作業とその労働に、わたしは疲れていた。四角いスチールの窓の外には、初雪だったのか雪虫だったのか、白いものが舞っていた。
新しい元号が発表され、ひとつの時代の終わりが告げられた今日。
わたしはあの、21歳になったばかりの『昭和』の一日を噛み締めている。
写真は、一年後の89年(平成元年)10月29日。
にんじん工場で働く最後の日に、同期と撮ったものだ。
昭和とか平成とか元号とか、まったく気にも留めず、ただ目の前にある一日を懸命に生きていたあの日々。
昭和が終わる寂しさなんて、微塵も感じなかった。
今も、平成が終わることに何の感慨もないけれど、30年という月日を経て、ああもう若くはないんだとあらためて思う。
一昨日、更年期に差し掛かったという同期の友人ふたりとLINEで会話をした。ひと足先に経験し始めているわたしは、最後にこんなことを書いた。
気づけば進んでいるのは、老いだけじゃない。
わたしたちは、人間としても進化している。
ひるまず進もう、と。
ひるまず、進もう。
わたしは今、自分にそう言い聞かせている。