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30歳、人生の転機

こうして丸二日間、人生で初めて食べ物が喉を通らないという体験をしながら一生分の涙を枯らすほど泣き尽くした直後、私はある決意をすることになる。

当時私たちの関係をよく知っていた福岡の親友、福岡時代の同期に泣きながら電話をした。
それまで、人に全く相談というものをしてこなかった私(もちろん彼とのことも)が初めて人を頼った瞬間だった。
自分でもなぜ彼らに電話をしたのか、
わからなかった。
ただ一つ言えるのは、
その時私はまだ別れを受け入れられていなかったということ。
これが何かの嘘であると思いたかったのか、
あるいはこれが現実であるということを、人に伝えることで自分の中に落とし込みたかったのか。
おそらく後者だろう。

処理しきれない感情で心も限界、頭も混乱していた私に温かい言葉をくれる親友。
ただただ私の言葉を受け止め、
つらさを和らげてくれた。

一方で、福岡時代の同期からは厳しい言葉をいくつかもらった。
彼に電話した理由はきっと、常に物事の本質を見抜き、いつも正直に、そして真っ直ぐに私と接してくれていたから。
彼に対しては心のどこかで深い信頼があった。
そんな彼は、厳しくも愛のある言葉でその状況に対する客観的な意見をくれた。
そこに私の甘えがあったこと、
すべて自分の決断がもたらした結果だということ。
その通りだった。
異論はなかった。

彼との電話を切った後、
さっきまでの悲しみやつらさが嘘だったかのようにどこかへ消えていた。
と同時に、私の中にある目標と決意が生まれていた。


ーまた留学へ挑戦しよう。

二度と英語なんて話すもんか。
海外はもう行かない。
そう決めて帰国した私が再びこの決断をするなんて、
まるで夢にも思っていなかった。

同期の言葉が私に自省をもたらしたのだった。

ーまだ、やれることはある。



別れを受け入れ、悲しみを味わい切った私だったが、正直彼のことはまだ諦めきれていなかった。
直接顔を見て話をするまでは、どうしても諦めきれなかった。


ーもう一度留学して、カナダで生活する。
彼が5年間住んでいた地で、私も一人でやってのける。
その姿を彼に見せたい。


自分を変え、成長した姿を見せることで彼にまた振り向いてもらいたかった。
そんな気持ちが私の中にあった。
この時の動機は紛れもなく、彼への執着だった。

そして別れから三日後、翌日にはセブの語学学校を申し込んでいた。

思い立ったら行動の早い私はすぐに計画を立てた。

『セブで三ヶ月間の短期留学をし、その後カナダへ渡り、ワーキングホリデービザで一年間滞在する。』

前回の留学での挫折を基に、確実に向こうで一人で生活できる英語力を身に付けたかった私はセブでの短期留学を計画に入れ込んだ。

そしてその後すぐにカナダの留学エージェントとコンタクトを取り、
カナダでの語学学校も決めた。
オーストラリアでの失敗を基に、叶わなかったバリスタの夢を叶えるべく、確実に向こうでバリスタとして働けるよう最低限のことをしようと、バリスタコースのある語学学校を選んだ。
そして同時にビザの発行に向けても動いた。
渡航時期を定め、留学費用を見積もり、必要な資金を貯めるべくもう一つアルバイトも始めた。
この時、派遣社員として週5日フルタイムで働きながら週2日、カフェでアルバイトをしていた。
余白が平日の夜しかなかったので居酒屋で働くことに。
人生で初めての居酒屋での仕事、未経験のことに挑戦するワクワクの気持ちを胸に、一日平均12時間労働の休日なし生活がスタートした。


目標が定まった今、”大変””つらい”などという気持ちは一切なかった。
やることが決まった以上はとにかく目標の達成、
夢の実現に向けて動くのみ。
余計なことを考える暇もないまま、
日々が過ぎていった。


そんな中、2020年の1月下旬からざわつき始めたコロナウイルス。
時間の経過と共に落ち着きを見せるどころか、世界中、日本中でも感染は広がりを見せ、
”パンデミック”という言葉が飛び交うようになった。
パンデミックによって国境を閉鎖する国も増えていく中、目の前の生活に必死だった私は、特に気に留めていなかった。

”なるようになる”

そんな気持ちでいた。

そしてカナダのビザの関係で東京へ行かなければいけないとなった2月、
国内でのパンデミックがピークを迎える直前、
無事にビザの申請を終えた。

パンデミックの最中でもカナダのワーキングホリデービザは無事発行され、
あとは渡航までの時間を待つだけだった。


そんな中、派遣での仕事に終止符を打つ流れがやってきた。
そう、噂の派遣切りだ。
コロナで多くの企業が打撃を受けた当時のご時世、私の働いていた会社も経費削減に追いやられていたのだった。
当時、オープニングから主要メンバーとして担当部署の仕事を一任されていた私が”派遣社員”という理由で切られたのだった。
お金を稼ぐという目的だけで始めた派遣の仕事。
パッションも何も、正直なかった。
不必要なご縁は切れるもの。
これもある意味何かの知らせであり、
新しいご縁に繋がるものなのだと受け止めた。

そんな私の状況を知り、掛け持ちしていた居酒屋でマスターから正社員登用の誘いをもらった。
非常に有り難く気持ちは嬉しかったが、
自分のメインのやりたいことではなかった為、
丁重にお断りをした。

その後、続けていたカフェの仕事でシフトを増やしてもらいつつ、居酒屋の仕事を続けていた。


そんな中、時は流れて2020年5月、
カナダ政府よりワーホリビザの保持者に渡航制限の通知が届いた。
内容は、ジョブオファーがない(カナダでの雇用契約がない)者は入国できないということだった。

エージェントに相談するも、初めてのことで打つ術がないということ、今はただ進捗を待ち、状況が変わるのを待つしかないとのことで、私の留学計画は足止めを食らった。

後にセブでの留学を予定していた語学学校からも連絡が来た。
この事態がいつ収束するかわからない状態であるため学費の返金かオンラインでの受講に切り替えるかを選択して欲しいということだった。
終息を待ち、時間が過ぎるのをただ眺めるのは嫌だった私はオンラインでの受講に切り替えた。
実はセブでの語学学校にもバリスタコースがオプションであり、追加で料金を支払っていた。
現地でしか受けられないコースだったのでそれは返金するとのことだった。

が、その後、フィリピンの国内の感染状況、それに伴う経済状況の悪化で多くの語学学校が閉鎖、倒産に追いやられているという事実を知った。
当時人気だったセブ留学に申し込みしていた日本人は多数いた。
セブではフィリピン人に経営による学校がほとんどで、返金されないまま会社が潰れる、突然消えるといった状況にただ泣き寝入りするしかない、といった日本人が数多くいた。
(私の申し込んでいた学校は日本人経営だったため、返金はされなかったが代わりにオンラインでレッスンを受けられた。私のオンラインレッスンが終わった直後にその学校も終わりを迎えたが…)

状況を知った私はすぐに返金について問い合わせ、フィリピン国内の銀行が機能していないため返金がいつできるかわからないと説明を受けた。
であればその分もオンラインレッスンへ充てて欲しいとお願いをし、すでに支払っていた授業料を全てオンライン受講へ回してもらった。

そして、フィリピン人講師とのマンツーマンによるオンラインレッスンがスタートした。
ここから約半年間にわたり、ほぼ毎日続けることになるオンラインレッスン。
日本の義務教育では習わない発音や英語を話すときの感覚、ニュアンスの違いなど、知りたくても知り得なかった知識を常に明るく前向きなフィリピン人の講師たちから学ぶことによって、英語力に自信をつけさせてもらう素晴らしい経験となった。



週5日フルタイムの仕事を辞めてからしばらくは、アルバイトを2つ掛け持ちしながら英語のレッスンに力を入れていた私。

なんだか体調が優れない毎日が続いていた。

それまで滅多に体調を崩すことがなかった私だが(年に一度、インフルエンザ等の大きな病に罹るかどうかくらいだった)、
常に気怠さや倦怠感があり、不眠や頭痛、腹痛などの症状が現れることもよくあり、なぜかよくわからない”不調”に日々悩まされていた。

毎日休みなく働いていたから、
心の糸が切れたのだろうか、
そんな気がしていた。

原因が分からない不調を抱えたまま、
時は流れた。


オンラインのレッスンは愉しかった。
ただ、英語を一日平均して6時間勉強している割には自分の中で”成長している”感覚があまり得られていなかった。

ーこんなにやっているのに…

日を重ねてもうまく話せない自分にもどかしさを感じていた。
英語学習の道のりがこんなにも地道なものになるとは予想していなかった。

そしてある日、講師から言われた一言が当時の自分に突き刺さった。

ー努力をしているのに、変化がない。成長がない。

そんな風に思っていた私に追い打ちをかけられたかのように感じてしまった。
講師は私を励まし、動機づけするために言ってくれたに違いない。
それでも、その時の私はそう受け取れなかった。
自己肯定感の低かった私は否定されることを恐れるが故に、人から言われる褒め以外の言葉を否定として受け取ってしまう癖があった。
悔しくて、その講師とのレッスンを終えた直後に涙が溢れた。

”心と体は繋がってる”

その考えが頭に浮かんだ私は
心(内側)が落ち込んだ時は外側から働きかけようと筋トレをした。
その直後に入っていた次のレッスンを前向きに臨めるように。


いつの間にかレッスンを愉しめなくなっていた私はその日、
自分に負荷をかけていたレッスンのスケジュールを変更した。

パンデミックの終息も見えず、
留学計画も一旦白紙になった今、
私は今何のために動いているんだろう?
今私がしていることは何のため?

自分に問いかけ、今やるべきことは”自分を整えること”だという答えに至った。

自分の体からのサインをずっと無視し続けていた私はいよいよ、自分自身の心身についてちゃんと考えなければいけないと感じた。


そんな中、仕事についても見直しをした。
今後どうなるか、誰にも分からない未来に向かって計画立てて動くことより、今の自分のがやりたいことをしよう。
そんな風に考えた。

そこで留学資金を貯めるために始めた居酒屋での仕事も辞めることにした。

そこでの仕事は楽しかった。
日々違うお客さんとの出逢いがあり、そこで生まれる交流も好きだった。
マスターやお客さんとの関わり合いの中で得られる気づきや学びも多く、
自分のエネルギーや愛を与えられる場であり、逆にそれを受け取る場でもあった。
料理や酒がとにかく美味しいだけでなく、そこにある雰囲気も全て含めて、故郷の青森市内で一番の、私にとって大好きな居酒屋となった。


居酒屋でお世話になった人たちへお別れをし、
その後は大好きなコーヒーと”人との関わり”が得られるカフェでの仕事を続けながら、英語学習に励む毎日。

一日の中で余白が増えた私はより一層、
自分と向き合う時間ができた。

自分自身の心身と向き合うと決めたはいいけど、
実際に何をしたらいいのだろう?
何から始めればいいのだろう?

そんな疑問を抱きながら自分を整える方法を模索していた。
精神的にも、そして肉体的にも。

”心も体も健やかでいる”
”自分軸で生きる”
”他人に依存しない”
”精神的に自立する”

自分の悩みやそれについての解決法、
自分が在りたい姿をネットで調べるといろいろな言葉が出てくる。
インターネットのアリゴリズムによって私の思考を分析されているかのような感覚に陥った。
そして行き着いた言葉は”自己肯定感”

ー自己肯定感って何?

そこから自己肯定感について調べていくにつれ、
自身の自己肯定感がいかに低いかを知った。
そして次に、それを高めていく方法を模索した。

ーとにかく、今の自分を変えたい。

そんな思いで必死だった。
”在りたい自分”になるため、
自分が良いと思う考え方や思考を取り入れ、実践していった。


そこで私は、それまでの人生で一番の大きな悩みだったこと、課題だったことに直面する。

それは、
”自分を好きになること”

そして、
”自分を大切にすること”


自己肯定感を高めていく上で必要不可欠なこととして”自分を大切にする”というワードが毎回出てくる。

誰かを大切にすることは経験があったが、
自分を大切にするって具体的にどういうこと?
それまで意識することもしていなかった。

相変わらず思わしくない不調が続き、オンラインレッスンも休みがちになっていた当時の私にとって最も必要だった、”セルフケア”。

改めてセルフケアの意味を調べると、
自身に降りかかったストレスに対して、自己管理や自己治療などを行い「自分自身をケアすること」。

意味は文字通りでなんとなく理解していたけれど、具体的な方法が分からなかった。

そんなワードばかりを目にするようになった頃、
当時私が大好きだったカリスマモデルの、
Instagramでの投稿に書かれていた
ある言葉が目に留まった。


ホリスティック栄養学


ーホリスティック?何それ?ただの栄養学と違うの?
なんだか分からないけどその言葉が無性に気になり、すぐに調べ始めた。

まず「ホリスティック」とは、「全体的に、包括的に、丸ごと」といった意味を指し、「丸ごと栄養学、総合的な栄養学」を意味するホリスティック栄養学とは、食べ物の食べ方のような従来の栄養学の範囲を大きく超え、生活環境、人間関係、働き方、宇宙など幅広い分野を取り扱う栄養学のこと。
西洋医学的に人の身体を部分ごとに見るのでなく、東洋医学的に身体全体で見る「ホリスティック医学」がもとの栄養学。

つまり、
ホリスティック栄養学とは、
『食べ物の栄養素だけでなく、個人の健康や幸せを取り巻くあらゆる背景(環境、人間関係、ストレス、運動、キャリア、創造性など)を考慮した総合的な心と体の栄養学』である。


ーこれだ!まさにこれが、私の求めていたものだ!

直感的に心でそう感じた私はすぐにホリスティック栄養学が学べる場を探した。
国内ではあまり浸透していないようだったが、
海外では大々的にそれを学ぶ場を提供している学校があった。

アメリカにある学校で授業は全て英語。
オンラインで受講可能。
いきなり英語で専門的なことを学ぶのはハードルが高そう…

そんな不安を胸に抱きながら調べを進めていくうちに、たまたま辿り着いた一人の女性がいた。


NY在住で、自らその学校でホリスティック栄養学を学び、その後ホリスティックヘルスコーチとして起業し、ビジネスの場でも活躍していたある一人の日本人女性だった。


言うまでもなく彼女が、後に私のコーチかつメンターとして私の人生を好転させてくれた人となる。

早速彼女へコンタクトを取り、そのアメリカの栄養学校について詳しく知りたいという旨を伝えた。
2020年の12月下旬から連絡を取り始め、
2021年の2月下旬、彼女との初のセッションを迎えた。

メールでいつも丁寧に対応してくれ、どこか温かみのある文面から彼女の人柄の良さは充分過ぎるほど伝わっていた。

そして迎えた初のセッション。
安心感のある雰囲気で、
気付くと私は終始自分のことについて話をしていた。
”とにかく今の自分自身を変えるためにセルフケアをしたい。”
その一心だった。

当初受ける予定だった、アメリカの栄養学校での授業で気がかりだった英語力を懸念していた私は、彼女が日本語で提供しているホリスティック栄養学とビジネスを組み合わせたコースの説明を受け、その場で受講を決意。

ー自分を変える。


そして私のホリスティック栄養学についての学びがスタートした。
まずはホリスティック栄養学の基本を学びながら、実生活でできることから始めていった。
インプットとアウトプットを繰り返す毎日。
食事や運動を意識的に取り入れて外側から身体のケアを行うと同時に、自分の内面と向き合う内側に働きかけるワークも行っていった。
これまでの人生を振り返り、過去の自分を内省することで見えてくるもの、気付きが数多くあった。


ここで、ホリスティック栄養学の中で私が大好きな考えを紹介したい。

それは”バイオ個性

バイオ個性とは、
人は一人一人違い、すべての人に合う食べ物はないということ。
また、食べ物に限らず考え方や生き方も一人一人違うということ。

つまり、
【ホリスティック栄養学には正解がない】
ということだ。

思わず金子みすゞさんの『みんなちがってみんないい』
という私の大好きな詩を思い出した。

幼い頃から「人と違う」「変わってる」と言われ続けた私にとって
とても安心感があり、しっくりくる言葉だった。

そしてこのホリスティック栄養学にも共通の考えがあって嬉しくなった。
科学的根拠に基づき、「食」そのものの栄養学を長期に渡る細かい研究から重視した日本の栄養学と異なり、科学的根拠などの理論だけでなく、「個人」に基づいて自分に向き合えることが利点とされるホリスティック栄養学は、まさに、私のこれまでの生き方を肯定してくれるような考えだった。


そしてその後も、
私の求める”自分軸”の確立に向けてどんどん学びを深めていった。


内側からも外側からも働きかけて自分を整えていく日々。
それまで見ていた日常や景色がどんどん変わっていくのを体感した。
なんとも思っていなかったことに意識し、感謝するようになっていった。
感謝せずにはいられなくなる毎日。
日々の当たり前が当たり前ではないのだと実感していくようになった。


これは私が見ている世界が変わったのではなく、
世界を見る私のフィルターが変わったのだと、
そう確信していくようになった。


ーこの世界は、思っていたよりもずっと美しい。

そんな風に思いながら毎日を過ごしていた。


いつの間にか、長期間悩まされていた謎の不調も消えていた。
健康であることに心から感謝した。


そしてそれからというもの、嬉しい出来事が頻繁に起こるようになった。

まずは内側の変化として、
やりたいこと”が沸々と出てくるようになったのだ。心でやりたいと感じることが。

そしてそれらを叶えるために動こうとすると、欲しいと思っていた情報に出逢えたり、会いたいと思っていた人に会えたり、やりたいと思っていたことをやる機会を得たりと嬉しい偶然が次々と起こり、様々な出逢いに恵まれた。



”自分の人生がみるみる好転していく”
そう感じずにはいられなかった。

そんな中、仕事においてもいよいよ、
自分のやりたいことがふと浮かんだ。

それは”子供達へ英語を教えること”だった。


オンラインレッスンで学び得た知識をアウトプットしたい!
今まさに学校の義務教育で英語を学んでいる子どもたちに、より有益で実用的な生きた英語を教えたい!
子供と関わる仕事がしたい!

そんな思いがワクワクと共に強く芽生え始めたのだった。
思い立ったら即行動。
ということで家の近所にできたばかりの塾へ応募し、採用。
小学生から高校生まで、様々な子供たちと触れ合う日々が愉しく、気付きと学びがたくさんあった。
自分を成長させられる場として、
毎日子供たちと学びを共有した。


"愉しく学び、共に成長する"


これが私のここで働く上でのモットー、
大切にしていることだった。

好きなことしかしないと決めていた私はカフェでの仕事と教育現場での仕事で日々満たされ、幸せを感じていた。

好きなこと、やりたいこととして始めた仕事、ただただ毎日愉しんでたらいつの間にか収入も増えていった。

誰かによって満たしてもらうのではなく、
自分で自分自身を満たす日々。
毎日、愛と感謝で溢れていた。


ー人生、愉しい!


いつしかそんな風に思えるようになった私、
心からの充実感で日々生きられるようになった背景には、当時のコーチの存在が大きく在った。

彼女とのマンツーマンのセッションによって、
自分一人では見えなかった思考の癖や思い込みに気付かせてもらったことが何よりも大きかった。

自分自身と向き合う時間を作って内省することも、一人で行う自己理解を深めるワークももちろん大事。
だけれども、これまで何度も自己分析や自己理解に努めても見えてこなかった、潜在的に刷り込まれていた自身の思考の癖やその原因を一人で深掘りすことはそう容易ではない。
例えばトラウマとなった経験の中には、実は自分の偏った解釈があること。
そこに気付き、気付いた上で改めて事実と思い込みを区別すること。
そして新しい解釈に書き換えていくこと。

とても深い学びだった。

コーチの存在によって、初めて私の深層心理が明らかにされたのだった。
そしてセッションを重ねるごとに、より深く自分自身を知るようになった。
とても、興味深かった。
これまでトラウマになっていた経験や人に話せなかった隠したい過去、
心の中にあった蟠りががすべて、穏やかに消化されていく感覚を覚えた。



ーすべての経験によって今の私がある。
どれも、必然だった。


そう思えるようになった瞬間に感謝が溢れた。
これまで出逢ったすべての人、経験してきたすべての物事に対して。


ふと、元彼のことを思い出した。
そしていつの間にか、私の中の”元彼”の存在が消えていたことに気付いた。
振り向かせるために留学を計画するほど執着していた彼のことを忘れていたのだ。
執着心を完全に手放し、残っていたのは感謝と愛だった。
私の人生で初めて愛を教えてくれた人、
そして愛を与えることと与えられることを同時に経験させてくれた彼には、
心からの感謝しかなかった。
これまでの人生で最も愛した人。
たくさんの気づきと学びを与え、
私を変えるきっかけをくれた彼。

今は心の底から、彼の幸せを願っている。


そしてこの瞬間に、
今の私の信念に繋がる考えが生まれたのを覚えている。


『起こることにはすべて理由がある。
人生で起こることはすべて最善。』

Everything happens for a reason.
Everything that happens is for the best.


人生、何が起きても絶対に大丈夫。
すべて乗り越えて、それを成長の糧にしてきた私がいるから。

パンデミックによって留学の計画が白紙になったことも、私にとって必要なことだった。
私の人生に”余白”をもたらし、自分自身と向き合う時間をもらった。

実体験を基にそれが確かなものへとなり、
これが今の私の大切な軸となった。




そしてこの時にはすでに
自分のことをありのままに受け入れられ、
自分のことを好きになっていた。


自分に対して強烈にコンプレックスを持っていた私が人生で初めて、
自分のことを好きだと思える自分になっていた。


セッションの最後、コーチから「このコーチングを通して何を得ましたか?」
と聞かれ、答えは一択だった。

「人生で初めて自分を愛せるようになったことです。」


ホリスティック栄養学とコーチの存在を通して
”自分で自分を満たすこと” 
”自分を大切にすること”を学び、
”自分を愛すること”を実現させられたこと。
これが何よりも大きな収穫だった。

ホリスティック栄養学との出逢い、
そしてコーチとの出逢い、
タイミングも、どれも必然で、最善だった。

そしてコーチングを受け始めた当初に立てた一年以内のゴール
『自分のやりたいこと、望みを明確にすること』

それまで自分軸が保てていなかった当時の自分が立てた目標。
約半年間でたくさんの『やりたいこと』を見つけ、実践してきた。
小さなことも、大きなことも。
心で感じること、思いついたことは全てやってきた。

そんな私がコーチングを終え、漠然とだが頭に思い浮かべたことがあった。


それは、
”私も誰かの人生を良くする手伝いをしたい”
”自分の人生を好転させるカギとなった自分を愛することの大切さを世に広めたい”
”自分を愛する人を増やしたい”

当時のコーチからは”コーチング”が私に合っていると言われるも、自分ではピンときていなかったし、正直自信もなかった。
なぜならこれは自分自身のため、セルフケアに始めたことだから…
これが人の役に立つかも分からないし、自分にそれができるかも分からない…

そんな思いを抱えたまま、月日が流れた。







2024年、34歳の年。
中学生の頃から憧れていた教育業界の仕事に終止符を打った今、
2021年に思ったやりたいこと、
一度は思い描くもそのままにしてしまっていた夢に向かって動き出している。


ここからどうなるかは分からない。
けれど、どうしたいかは明確。


自分の望みが明確になった今、
自分の望む人生を創造していく準備は整った。










貴重なお時間を割いて読んでくださった方、
本当に有難うございます。


いよいよここから先は、
自分を信じ、心に従って生きていく様、
自分の望む人生に向かって歩んでいく様を
リアルタイムな話を交えながら綴っていきたいと思います。





With love and gratitude

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