日本代表監督史1 ハンス・オフト監督
みなさんこんにちわ!
今回は「日本代表監督の歴史 ハンス・オフト監督」というお話です。
オフト監督以前にもすごい監督はいるんですが、
日本サッカープロ化黎明期以降の監督でお話をしたいと思います。
もしかしたら、今後の日本代表が向かうべき方向がみえるかもしれません。
①ハンス・オフト監督の基本データ
・本名:マリウス・ヨハン・オフト
・生年月日:1947年6月27日
・国籍:オランダ
・日本代表就任時期:1992年5月〜1993年10月
※Jリーグの始まりが1993年5月15日から
・選手時代のポジション:フォワード(FW)
・選手経歴
〔代表チーム〕
・なし
〔クラブチーム〕
・1964-1967 フェイエノールト(オランダ) 17歳〜
・1967-1970 フェーンダム(オランダ) 20歳〜
・1970-1974 カンブール(オランダ) 23歳〜
・1974-1975 へーレンフェン(オランダ) 27歳〜
※28歳で怪我で引退
・監督経歴
〔代表チーム〕
・1975年 U-21オランダ代表コーチ
〔クラブチーム〕
・1982 ヤマハ アシスタントコーチ
・1984-1987 マツダ アシスタントコーチ
・1987-1988 マツダ 監督
・1994-1996 ジュビロ磐田監督
・1998 京都パープルサンガ監督
・2002-2003 浦和レッズ監督
・2008 ジュビロ磐田監督(再任)
Jリーグが開始する前後の時期に初の外国人として日本代表監督をつとめた、日本サッカーに大きな影響を与えた監督です。現日本代表監督の森保一氏はこのオフト監督に見出されてこの時代に日本代表選手になっています。
②日本代表の戦術とシステム
オフトジャパンの時の主なシステムはこんな感じです。
日本サッカーがプロ化する前後の時期なので、
日本代表でさえ現代サッカーのような戦術的に統率されたチームではありませんでした。
どちらかと言うと、読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)と日産自動車(現・横浜Fマリノス)の2強クラブを中心とした個の力の代表チームと言っていいかと思います。
システムは3-5-2や4-5-1、4-4-2などを使って、最終的には4-5-1(2ボランチ)に収まった感じです。
③ダイナスティーカップ初優勝(1992年中国大会)
実は日本代表がはじめて手にした国際タイトルです。
のちに「EAFF E-1サッカー選手権」のなる東アジア地域の国際大会で、KINGカズ(三浦知良)がMVPとなり優勝した大会でした。
日本代表のフェーズが大きく変わった瞬間でした。
日本にサッカーの基本を伝え、状況を劇的に変えてくれたのがハンス・オフト監督なんです。
今じゃ考えられないですが、それまでの日本代表はタイや中国なんかよりも弱く、日本代表の人気も相当低かったんです。(高校サッカーのほうがお客さんが入っている状況。。)
そんな日本代表をオフト監督が日本を強くできた理由は、
次のような戦術的ワードだったんですよ。
・コーチング…周りの選手に声掛けしよう
・アイコンタクト…目線で合図をしよう
・メイクトライアングル…パスコースをつくるため三角形を作ろう
・スモールフィールド…守備の時はピッチを小さくして選手間の距離を縮めよう
「サッカーの基本じゃん!」という声が聞こえそうですが。
今では小中学生ぐらいで習うようなことを日本代表レベルでできてない部分あったということです。基本って本当に大事だなって思います。
いくら個の力があっても“基本的なことがやれてないと力を発揮できない”ってことです。
④アジアカップ初優勝(1992年日本・広島大会)
そんなオフトジャパンは、同じ1992年に広島で開催されたアジアカップで初優勝します。
日本代表として2つ目のタイトルです。
この大会も今では、優勝するのがあたりまえ位の雰囲気がありますが、初優勝は30年前なんですよね。本当に日本サッカーが強くなってきたのはごくごく最近のことです。
実はこんな急激にサッカーが強くなった国は他になくて、日本は世界から驚かれている存在なんですよね。
【アジアカップ 1992年広島 成績】
・グループステージ
・日本 0-0 アラブ首長国連邦
・日本 1-1 北朝鮮
得点者: 中山雅史 (80分)
・日本 1-0 イラン
得点者: 三浦知良 (87分)
・準決勝
・日本 3-2 中国
得点者: 福田正博 (48分), 北澤豪 (57分), 中山雅史 (84分)
・決勝
・日本 1-0 サウジアラビア
得点者: 高木琢也 (36分)
※大会MVP:KINGカズ
オフト監督はヨーロッパ人監督らしく、チームの規律と戦術を重視しました。
これに対して、読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)のラモスやKINGカズは自分のスタイルを貫こうとして、オフトのやり方に反発していました。
オフト監督はよく選手を呼ぶ時に指笛をしてから指示を出していたんですが、ラモスは指笛で呼ばれた際、「犬じゃないよ、冗談じゃないよ」と怒ったというエピソードがあるくらい最初は確執がありました。
それに対してオフト監督は「もう代表に来なくて結構」と突き放したそうですが、優勝という結果を出し始めると、お互いにその価値を認めるようになったんです。
日本代表レベルともなるとクラブチームの中心選手が集まるので、その選手たちをどうマネジメントとするかという難しい仕事がありますよね。
特にKINGカズはブラジルの名門サントス(ネイマールなども所属したトップクラブ)でレギュラーをなった実力者。ラモス瑠偉選手は日本サッカーの中でも1つ抜け出たゲームメーカー。
なかなか折り合いをつけるのは大変です。
⑤Jリーグ前哨戦ナビスコカップ、Jリーグ開幕(1993年5月15日)
こんな上り調子の中、Jリーグは華々しく開幕します。
たぐいまれなリーダーシップを発揮した川淵三郎チェアマンを中心に日本サッカーがアマチュアからプロに変わった瞬間でした。
オフト監督の話なのに、なぜJリーグの話を挟んだかというと、ドーハの悲劇が起きた1つの理由だからです。
しょうがなかったんですけどね。。
当時のJリーグの日程を見てみると、10チームでリーグとしての興行として成り立たせる為、週2(水曜日、土曜日)で試合をしていることがわかります。
Jリーグ開始で選手層は薄いうえに、ターンオーバー(コンディション維持のため選手を入れ替えて試合をすること)なんて言葉もあまり使われていなかった時代です。
日本代表選手達はどんどん疲労していきました。。
そんな中、攻守の要の1人である左サイドバック都並選手が左足の亀裂骨折で離脱。
当時の代表にとって、読売サッカークラブ(現・東京ヴェルディ)のKINGカズ、ラモス、都並のトライアングルは攻撃の核だったのでかなり困った状況に陥ってしまったんです。
都並選手離脱後の日本代表の成績を見ると、
9月15日: 日本 0-2 ベティス (国際親善試合)
9月21日: 日本 1-2 カディス (国際親善試合)
9月23日: 日本 1-2 へレス (国際親善試合)
10月4日: 日本 1-0 コートジボワール
あれだけ勝っていた日本代表がなかなか勝てなくなってしまったんです。しかもイタリア合宿でクラブチーム相手に3連敗。。
オフト監督もいろいろ頭が痛かったと思います。
やはり代表強化とプロリーグの興行の両立は、現在進行形での問題ですね。
⑥ドーハの悲劇(1993年10月28日アジア最終予選敗退)
現在のアジア最終予選はホームアンドアウェイの自国での試合と敵チームの国での試合をしています。ですが、1993年アジア最終予選は違ってました。
2022年ワールドカップが行われたカタールの・ドーハでの集中開催。中2日での試合というとんでもスケジュールでした。さらに暑いし、1993年当時はスタジアムは古くピッチも凸凹。
10月15日: 日本 0-0 サウジアラビア
10月18日: 日本 1-2 イラン
10月21日: 日本 3-0 北朝鮮
10月25日: 日本 1-0 韓国
10月28日: 日本 2-2 イラク
勝てばワールドカップ初出場が決まるイラク戦。試合がロスタイムに入るまでは、日本が2-1で勝っていました。勝てばアメリカワールドカップへ出場、それ以外は敗退の状況でした。
ですがロスタイムでの失点。残り時間は1分もなかったと思います。岡田武史元日本代表監督が、言葉につまる様子でショッキングさが伝わるんではないかと思います。
今思えば、日本サッカーがまだ未熟なところが
あったんだと思うんです。
崖っぷちの状態から韓国に勝利し、ワールドカップ初出場がみえてきた瞬間、すでにワールドカップ出場が決まったかのように浮かれてしまったんですよね。僕も浮かれてました笑
でもラモス瑠偉のように「これからだよ」って気を引き締めてないといけなかったんですよね。何もまだ手に入れてないんですからね。
また、ロスタイムの時間の使い方ですね。ボールキープすれば敵に攻撃されることはなかったと思うんですが、そういうプレーができなかった。まだまだみんなサッカーをしらなかったんだと思いますね。
今でもこの映像をみると、「なにもこの試合じゃなくてもよかったんじゃないか」と思っちゃいますけどね。。ラモス瑠偉選手の気持ちを思うと涙がでてきますね。
オフト監督は、日本代表に基本と規律を与えてワールドカップ初出場まであと一歩というところまで成長させてくれました。
今ではアイコンタクトなんかは当たり前のことかもしれないですが、基本はいつまでたっても大事ですね。
■PS
大事といえば、最近の日本代表をみて気になるのが熱量の部分ですね。これも基本だと思うんです。
このドーハの悲劇の時の選手は、今の選手ほど、うまくないですが、武骨ながら「プロとしてプレーできることに感謝して、サッカー界を盛り上げるんだ!」という熱量がありました。
初心は忘れがちですが、忘れないようにしたいですね。
では、また!
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