世間に転がる意味不明:政府は原則高圧的である(経路依存性を無視するマイナンバーカード)
■名称を変えることと問題解決は違う
報道の一部だけを切り出して批判するのは危険ではあるが、下記の記事での「河野大臣」の発言はシステム思考という観点からは全く評価できない。馬鹿としか思えない。
○河野デジタル相、マイナカード名称変更に言及 総点検は「徹底的に」
2023/7/2
河野太郎デジタル相は2日のNHK番組で、マイナンバーカードの名称変更に言及した。2026年中にも実施するデザイン変更を念頭に「マイナンバー制度とカードがかなり混乱している。次の更新でマイナンバーカードという名前をやめた方がいいのではないか」と述べた。
https://mainichi.jp/articles/20230702/k00/00m/010/051000c
名前を変えたから今の問題が解決されるわけではない。システム開発の不全がもたらしているのだから、そこにメスを入れなければならない。
もっとも、それで問題が解決されるわけではなく、そこに至る文化的な背景も考慮しなければならない。
■経路依存性
ウィキペディアでは「経路依存性」を以下のように表現している。
経路依存性(けいろいぞんせい、英: path dependence)は人々が任意の状況で直面する決定の集合が、過去の状況がもう関係なくなっているとしても、人々が過去にした決定や経験した出来事にどのように制限されているかについての説明である。
少しわかりにくいが、一番身近な例で云えばキーボードの「QWERETY配列」であろうか。年配の人であれば「親指シフト」という言葉を覚えているだろうか。優れた配列であったが「QWERTY配列」を覆すことはできなかった。
劣っているかどうかではなく、すでにその文化が根付き、それを前提とした文化が形成されると容易には覆せないと言うことだ。それを無視した施策は成功しない。
アメリカの銃規制の問題も同じかもしれない。
日本でも、以前クールビズとして「半袖スーツ」を政府が推奨したが、そんなものは浸透しなかった。そりゃそうだろう、「暑ければ暑苦しいものは着なければ良い」のだから。こうした政策を社会の変化とセットしないマイナンバーカードがうまく行くわけもない。
■技術的進歩と社会的圧力が文化を形成する
デジタル化は放っておいても進む。歴史的に見れば明らかである。
かつて、自分のお金を引き出したり預けたりは銀行の窓口に並ばなければならなかった。これを解消するためにATMが発達して、遠くの銀行まで行かなくても良くなった。数年前には、現金(特に硬貨)を取り扱わないATMが登場した。なぜなら、取引は「オンライン」で行なうようになったからだ。
テレビコマーシャルに現金が使えないなら別の店にと言うコンセプトのものがあり、現実キャッシュレスが進行し、いつか小規模店舗から機械式のレジが無くなる日も来るかもしれない。
いずれも、市民が困るからシステムが変わる例だ。
マイナンバーカードがないと困るサービスがあるかといえば「ない」。
保険証が今のままで困り理由は「我々にはない」
銀行口座が分散して困る理由は「我々にはない」
無理矢理使わせようとしてもダメだ。まずは、今までと同じかあるいは便利になるシステム設計をし直さなければばならない。今のくそシステムのまま名前を変えても何も変わらない。
ワインをそのままで革袋を変えたとしても味は変わらない。
このことわざ知っている?
■教訓
想定外使用はやめるべきであろう。本来の「行政サービス(住民票などの発行など)」が確実に行なわれることを優先すべきである。
もっとも、それが誰の利益になるのか、投資するほどのものなのかのグランドデザインを示さないといけない
<閑話休題>