趣味という幻想から自由になる
私には趣味と呼べるものがありません。
50年近く生きてきて、そう呼べるものがないことに、ずっと焦りを感じていました。
でも、ここ最近、趣味というものの捉え方が少しずつ変わってきた(変えていきたい)と思っている自分がいます。
没頭への憧れ
趣味があることで、リラックス、息抜きができる。
仕事ばかりに時間を費やすのではなく、人生に彩りがもたらされる。
何より一番憧れるのは、没頭できる(無心になれる)時間が持てること。
常に、何かしら気を張っている私にとって、趣味という言葉はとても魅力的に感じられます。
没頭できるという意味では、英語がずっとその役割を果たしてきたと思うのですが、英語を趣味ということはなんだか違っていて。
仕事としての責任を考えると、だんだんそうは思えなくなってきていました。
趣味がないことに対するコンプレックス
趣味と言えば、音楽。
これは、過去を振り返っていて気づいたことなのですが、私自身、楽器ができない(楽譜も読めない)ことに対して大きなコンプレックスを持っています。
中高とお嬢様学校に通っていて、ピアノを弾けるのは当たり前の世界。なんなら、お琴やフルートなど、もっと珍しい楽器をやっていた友人もいて。
(今思い返すと、親が礼儀やマナー、社会で生きていく上で必要なことを教えてくれなかった不満にもつながるのですが、それはまた別の機会に)
大学時代に、親友たちがバンドを始めた時の取り残された気持ちも大きかった。これもここに書けるほど消化できてはいないけれど・・・自己表現する術を持つ友人たちがすごく羨ましかったのだと思います。
趣味で自己表現しようとする欲深さ
突き詰めて考えると。
私は今、楽器がやりたいわけではなくて、自己表現する術が欲しいのだと思います。
一旦、楽器という形を通さなくても、言葉で思いを表現したらいい。
私自身、幼少期のトラウマを発端として、その後の長い人生の中で、自分の気持ちを見て見ぬふりをすることが多くありました。自分の中でさえ抑えているのに、それを誰かに伝えるなんてもってのほか。
ずっと、気持ちを言葉にすることをサボってきました。
でも、これからはちゃんと言葉にしていきたい。(それもあってのnoteの再開です)
趣味に話を戻すと、「リラックス・没頭」を求めながらも、「自己表現」もしたい。それはあまりに欲深すぎるのではないかと思います。
「趣味は〇〇です。」ということで、それを自分の個性にしたい。(個性がないことも自分のコンプレックス)
もっとぶっちゃければ、何かのきっかけでそれがお金を稼ぐ術につながる?そう思う気持ちが全くないとは言えません。
ああ、これではダメだな・・・
気楽に趣味と呼べるものを増やす
「欲深い」で思い出したのが、「理想も高すぎる」ということ。
「これくらいのハマり方・レベルで、趣味と呼んでいいのか?」
そう自問自答する声もあって、趣味と認定してこなかったものもたくさんあります。
読書、手帳を書くこと、旅・・・これらだって、趣味と言っていい。
そして今やっと手をつけ始めたカメラだって、趣味と呼んでいい。
頭でっかちに長々と書いてしまいましたが・・・
小さな興味を大事にして、それを育てていく
その方針で、やっていきたいと思います。
さあ、昨日届いたクレヨン画の描き方の本を見てみようっと。
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