【超短編小説.4本目】一杯のコーヒー
会社を辞め、退職金と貯金を使ってこの喫茶店を開いた。そして10年が経ち、常連客も増えた。最高の一杯をお客さんに提供することだけが、今の生きがいだ。店のドアが、勢いよく開き、女性客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「ハァ、ハァ、ハァ…すみません。コーヒ一つ。ハァ、ハァ…」
「ホットですか、アイスですか」
「あ、アイスでお願いします。ハァ、ハァ」
その女性は、席につき「ふぅ」と息をつく。
「お待たせしました。アイスコーヒーです。」
丁寧にじっくりと淹れた一杯を、女性客の前に置いたその瞬間、勢いよくコーヒーを飲み干し、その勢いのままレジにやって来た。
「あの、ごめんなさい。一つよろしいですか?」
我慢できず、わたしはその女性に声をかけた。
「はい?」
「うちの店を…給水ポイントとして利用してます?」
「…はい?」
「ジョギング中ですよね?」
「ええ、まあ。」
「昨日も、ジョギングの途中で、疲れ果てた状態で来ましたよね?」
「まあ、はい。」
「うちの喫茶店を、給水ポイントとして利用されてますよね?」
「……え、ダメですか?」
「いや、ダメでは無いんですけどね…。こだわってじっくり淹れたコーヒーを、その…水分補給として利用しないでほしいっていうか…。」
「え、別によく無いですか?どう飲むかはわたしの勝手でしょ。」
「ポカリとかと当店のコーヒーが同列に並べられるのは嫌なんですよ。てか、なんでジョギング中にコーヒー飲むんですか?」
「うるさいなぁもう。わたしの勝手でしょ。」
「そこらへんの自販機で飲み物買えば良いじゃないですか」
「嫌ですよ。」
「なんでですか。」
「自販機って、スーパーとかに比べて、そこそこ値段高くないですか?」
「うちのコーヒーの方が高いでしょ。喫茶店のコーヒーなんて、ぼったくりギリギリのラインですよ。」
「店側がそんなこと言わないでくださいよ。」
「とにかく、お願いですから当店を水分補給に利用しないでください。」
そう言うと、女性は寂しそうに俯いて、静かに語り始めた。
「…疲れた時、この店に来ると元気が出るんですよ。」
「え…?」
「笑顔で頑張ってる店主さんを見ると元気が出るんです…。元気をもらってるんです…。私、マラソン選手として頑張ってるんですけど、最近不調で、そんな時、ここで働いてるあなたを見て。元気をもらったんです。それから、この店に通うようになりました。」
「そうだったんですね…。」
「だから、この店が、私の人生の支えなんです。……また…この店に来ても良いですか?」
私は、涙ぐむ女性の目を真っ直ぐに見て言った。
「出禁です。」
数年後、一人のマラソン選手がオリンピックに出場した。インタビューで読んだ情報によると、コーヒーをポカリに変えてから、タイムが良くなったそうだ。