シン・アートー越境せよ!
森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第69回目。
K「森田さん、こんにちは。次の対談のテーマ、私は浮かんでいないので、森田さんから何かないでしょうか? これまでの議論の延長上で、良いと思いますが。しかし、暑いですね。名古屋は夕方になっても、30℃。」
M「加藤さん、こんばんは。名古屋は30C!。ちょっと、異常気象ですね。私の方は土砂降りで、今日は職場から濡れて帰ってきました(突然のスコールで、傘を用意してなかったもので)。ちょっとまえに、「惑星ザムザ」の件でお話ししました布施琳太郎が再度「話題」になっていますね。他の批評家たちと、モジャモジャと応戦している模様ですが、「現代アート」であるなあ...と。我々が、こいつらに興味がない、今後も興味をもつことがないのは、確実ですが。「現代アート」に、決定的に欠けているのは「何か」、(前の対談で、我々は日本の現代アートを全否定しているので、その答えとしては、「何もかもが」ということになりますが)。」
「福尾匠氏の抗議。」
「ちなみに、布施琳太郎と論戦しているのは、この石田裕己という方(下記リンクにて、布施氏との応酬がまとめられているhttps://note.com/ut_hitorigoto/n/nc7748ca8e7ab)。」
「石田裕己氏が「惑星ザムザ」を批判して、その応答という形で出した美術手帖の文章で、上記の福尾匠のツイートを恣意的に「使用」し、それに福尾氏が抗議した...という流れです。リンク先の記事「僕の「惑星ザムザ」評に対する布施琳太郎さんの応答への再応答」でも、指摘されていますが、布施氏のキュレーションは「雑」で、ステートメントと作品とに不一致がしばしば見られ、そればかりか、作品の魅力を減縮してさえいる場合もあると。」
K「森田さん、ありがとうございます。何か、複雑そうですが。大事な前提として。現代アートの展覧会のステートメントにしろ、実際の展示内容の批評文にしろ、通常ほとんど誰も読みませんよね。まともに。読まれないものという認識が広く前提としてある。私自身が、そういう習慣で。自分が参加したものも。まあ、展覧会のタイトルぐらいは、気にするという感じで。ましてや、それら執筆者たちによる「論争」というのを長文で、公開でというと、私には読み通すのはほぼ不可能なものになる。ここには、何が欠けているのかと言えば、「芸術」が欠けているんでしょうね。シンプルに。「デザイン」しかない。」
M「加藤さん、こんにちは! そうですね。モジャモジャ...と、論戦してるけど、いったい、まともに、あれらを誰が読むのか?と。芸術が欠けている。デザインである。その通りだと思います。」
「布施という人は、芸術の「モノ性」への還元を拒否すると。」
「「芸術かどうか」の判断の、引き延しの戦略というふうに、私には思えます。」
「ある意味で、布施氏は、彦坂氏と通じている部分がある。」
「モノ性への否定、や、キメラになることへの欲望、とかも、私には彦坂氏の論法に通じているものを感じる。モジャモジャ小難しいことをいってますが、「芸術判断は俺がやる」と。その点は、譲らないようですね。」
K「なるほど。「芸術判断は俺がやる」と。「権力」について語っていますね。森田さんは、美術業界での振る舞い方としての、彦坂氏との共通点を感じると。布施氏に。曰く「モノ性への否定」は、彦坂氏のよく言う「アートは人格で作るのだ」という、人格または精神中心主義と重なるということでしょうか。「キメラになることへの欲望」って、なんでしょうか。現代思想みたいな? これも、彦坂氏がよく言う「何重人格」とか、そういうことへの共通性と。森田さんは、布施氏の文章に、彦坂氏の形式上の反復を見ると。ならば布施氏は、彦坂氏を参照しているのでしょうか?」
M「彦坂氏の「たおやめぶり」というのは、かねてより加藤さんと議論していたポイントとしてありますね。」
K「本居宣長の。柄谷行人が語った「日本性」としての。」
M「布施氏が彦坂氏に影響を受けているのは、94年生まれの布施氏のことですから、大いにありえる。逆に影響を受けて「ない」可能性は、低いのではないでしょうか。そうですね。布施氏のことですから、柄谷行人はもちろん、読んでいるでしょう。」
K「そうなんですね。今頃、現代思想系の人なんですね。」
M「ばりばり、現代思想系ですね。布施氏。逆に、もちょっと、一般向けに「読める」ように配慮がほしい。隠語の塊みたいな文章なんで...。」
K「文章下手ですね。」
M「布施林太郎のお父上(布施英利)も、なかなかアツい。レオナール藤田のコスプレしてるおっさん。」
K「その人、Twitterで目にしたことがありますよ。沖縄の有名な画家を褒めていた。美術の完全素人ですね。美術の堂々とした完全素人。」
M「でもなぜか藝大の教授という。」
K「だから藝大。」
M「なかなか、看過しずらい存在。構造ぐるみ、で非常に厄介なんですよね。フセ父子。言いにくい部分ですが。お父さんのツイートではいつも「琳太郎ぉ~」という感じ。」
K「それは、まさに堂々としていますね。私の印象と、森田さんとの一致ですね。」
M「清々しい程の。」
K「清々しい。「僕は権力を否定しない。」」
M「Twitterのツイートを重要な参照先として、論文に組み込む...って。今まで考えられなかったメンタリティですよね。しかも、そのツイートの主がマジギレ(笑)してるって...。」
K「なるほど。そこは「前衛的」だと。論文に人のツイートを参照。」
M「前衛/過激。しかも、曲解にての参照。美術手帖も、そこにこそフォーカスしてほしいですね。一番クリティカルな部分は「無視」と。またしても、我々が「正統」からのアートクリティック。これ、放置しつづけると、アート界のプリンスによる「つくられた独裁」になりかねない。」
K「美術手帳は、記事が載っていることを確認する媒体でしょう。画像確認とか。」
M「底が抜け過ぎですね...。「やりたいほうだい」。」
K「大体私は、読んだことがありません。美術館には置いているのかな、今。確かゼロ年代には、世田谷美術館の学芸員室に置くことを廃止したと、キュレーターの東谷隆司が私に言っていた。」
M「「プロ同士」のコミュニケーションの作法では、じつはそんなにプレゼンスはないと。美術手帖。」
K「真面目に学芸員を研究者としてやるなら、美術手帳などはおよそ参照できないでしょう。しかし、学芸員自体の文章も、私は美術家としてまともに読もうと思ったことは、これまでほとんどない。学問としてのそれなど、「空虚」化しているのは前提でしょう。大体ゼロ年代から、例えば私の愛知では愛知県美術館の拝戸雅彦氏のメガネが、色付きの業界人のようなものに変わった。興行師ですね。学究の徒ではなく。」
M「布施林太郎も、あの歳にしてはスーツが似合わないツラガマエですね。黒瀬陽平の、あのロン毛にも違和感があったのですけど。なんというか、自分の事をアーティストって勘違いしているかな?と。」
K「無意識に、形式をここでも反復しているのでしょうか。黒いシャツ等。」
M「「反復」感がパないですよね。黒瀬陽平の場合は、「包摂」ってのがキーワードでしたが、布施氏の志向性も、その反復性が感じられる。包摂する世界の管理人としての自分、と。」
K「黒瀬陽平の文章自体、私はまともに目を通したことが一度もないのですよ。」
M「布施にくらべて、黒瀬は文章は下手じゃないですけど、イメージの政治に終始している人でしたね。」
K「イメージは上手でも、芸術にはアクセスできない。」
M「できない。絶対に。嘘だから。嘘がお上手。マーケットに流通させる手腕が、腕の見せ所、、、と。」
K「また、彦坂氏のように、「多重人格」に自身の身を潜めることでも、同様に。芸術にはアクセスできない。」
M「そうですね。「複雑性」ですね。[「芸術」の]「複数性」に届かない。」
K「日本の現代アート界、さらに不毛さの極地に行っているようですね。それが確認できました。」
M「仰る通りです。一人くらい、面白い奴がいてもいいのに。いない。反復。スティーブライヒ(笑)。加藤さんがいれば十分ですね。」
K「「強迫」ですね。反復。」
「「私は行く」(笑)。」
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