批評空間

オマル マン氏との対談、第45回目。

「オマル マンさん、おはようございます。本日は珍しく早朝から書き始めています。前回末尾に私が言及した梅津庸一氏によるYoutube動画の最新のものが出ており、昨晩見ました。この内容を批評対象として分析的に語ってみたいと思います。美術大学で教師職を務める人物との、ホテルの個室での対談動画の形を取っている。」

【パープルームTV】第141回 春だよ!美術大学の新入生ガイダンス Part1
https://www.youtube.com/watch?v=xFD7gEuwnU0

【パープルームTV】第142回 春だよ!美術大学の新入生ガイダンス Par2
https://www.youtube.com/watch?v=i86GXLEaqj0

「内容は主に、美術大学内の因習的・制度問題について。美術の私塾(パープルーム )を運営する梅津氏の「在野」の立場から、この美大講師の本音を引き出すという趣向のもの。大学内・外の立場は異なれど、両者に共有されていると思しきは、美術家として(自己の作品レベルかつ、指導における言説レベルで)有能とは言えない教師が、学生の潜在的能力の芽を摘む、これが温存される構造への批判。この講師からは、外部からの「査定」が必要だという積極的提起もされるが、査定とは一体何を指すのか。」

「一方で、梅津氏から、美術批評の機能の近年言われる低下の話。そもそも、戦後美術批評がかつては機能したというのが、幻想だったのでは?という、梅津氏からの根本的問いも。私も、多分にそう思いますが。私がコロナ禍直前の2020年までnote対談をしていた美術批評家・矢田滋氏[1]の、個人の仕事、戦後・日本美術批評史の総括的研究は、実際に現在中断をしているようだ(私は元々、それに意味があるのか?という疑念を持っており、そう矢田氏に個人的に表明もしていた)。」

[1] 加藤豪・矢田滋 https://note.com/kenkyuukai

「美術批評言語の審級の不在が広く言われるように現実であるのならば、外部からの「査定」は、つまり「市場」ということになりますね。」

「果たして、芸術がそこまで堕落して良いのか?という問題があるが。」

「堕落こそが今日の芸術という観念は、すでに広く流布している。人間の堕落のあたかも見本になるようなことが、芸術の役割だというような。これは肌身で感じられる。」

「「美術批評」などというものが(戦後に限って)、そもそも機能したのが幻想ではないのか、その観点に立てば、現在の全てのメッキが剥がれた現状はむしろ健全だと、対談内容。そのように戦後に限る必要はなく、例えばヤーコブ・ローゼンバーグを読むと、個々の作品に即して「批評」言語が見事に成立している。私から見れば。「元々なかった」というのは成立しない。特に、伝統的な「空間」「バルール」の問題継承は、現代においてもアメリカの一番優れた部分の作家には明瞭。エルズワース・ケリー等。」

「この伝統的問題は、最もわかりやすく、かつ所謂「具象」「抽象」等の境を超えて、存在し続ける。ここから、日本は意識が(制度的に)疎外されている(私以外は)。日本の美術人の意識は、個人レベル・社会レベル問わず、主に「政治」。いわば政治で頭を疲労させている。共通了解のように。」

O「加藤さん、こんにちは! 問題提起、じつに興味深い。今、動画をざっと見たのですが、彼らが語っている批評の「空位」について。直接的な美術批評だったら、ゼロ年代だと、美術手帖が劣化したあと、その裏チャネルのような機能性で、彦坂尚嘉がやっていたのであって。しかも、あなたたち界隈も、モロに影響を受けているでしょ?と。なんでそれを言わないのかなあ? おかしいなあ?という率直な感想が第一にあります。カマトトぶりすぎでは? そのポイントを避けているのは、フェアではないと感じました。仮に、梅津氏や山本氏が、批評の機能を再起動させて「社交」を再生させたいのであれば「あなたたちがまさに彦坂氏のようになればいいのでは?」 それができないのなら会田誠のように大文字の愚鈍を歩むのが、logicとしては正しい。前の対談(ピーターパンとアート)で私は「梅津氏の真面目さはカッコつき」と言ったのは、まさに、こういうところにある。挑発的にみえるけど、マズイ部分は、避けてる、という点ですね。」

K「うん、確かに。暗黙のそのような構造(裏チャンネルとの二重性)の無視という「暗さ」は、梅津氏に見られる。そのような政治性。「明るさ」がないんですね。「暗さ」の政治性は、美術批評家・椹木野衣氏から(福田和也経由)。」

O「うん、まさに。梅津氏の本音は、(自分の都合のよい形としての)「社交」をどうにかして、構築したいということでしょうね。しきりに業界の、その非対称性を批判するが。その本音は、自分がとってかわりたいと。」

K「「社交」はビジネスだと。「梅津は怖いぞ」と脅しながら。真の「明るさ」がないから、「交易」ではないんですね。つまり交流ごっこ=ビジネス。日本では。何も生産しないですよ。自分の「席」取りのメリット以外は。」

「梅津氏の視野の広い身体性には、この点が欠落している。」

O「梅津氏って、悪い意味で、分かりやすいですよね。」

K「そうですね。よく見えました。手法が。これかと。我々が反面教師としている、彦坂尚嘉氏の悪い面だけ、形式的に反復・継承している。梅津氏は。「彦坂は怖いぞ」という、みみっちい自己利益に味をしめた政治性。」

「梅津氏自身の作品が、私が上記示したアメリカに継承されている美術の伝統要素を欠いている。参照する黒田清輝も遡れば同様。動画中槍玉にあげた鬼頭健吾も全くの同様。これらは全て「芸術」の名を語りながら、「芸術」成立はしていないのです。「芸術」ではなく、ただの「模様」(鬼頭健吾)だったり、ただの「デザイン」だったり。「査定」をするなら、これら全てでしょう。結果は「沈没」ですよ。当人らも。何を政治ごっこをしているのか?と。「可能性のある学生」を盾に。そんなことは何も根本的な問題ではないのですよ。その観点から、大学批判をしたって何も意味はない。「不安から」と梅津氏がここで告白しているように。」

O「「全滅」免れないでしょうね。」

K「当然ですよ。浅薄な「不安」だけでは済まない。」

O「いっそ全滅してごらん?って地点が、本当の意味で「批評」なんだと思うんですよ。だって、加藤さんは、実際に、皆殺しにかかっているし。そこは虚勢のつもりもなく。本当に、そこが、まずスタートラインで。」

K「上記、伝統継承の例。レオナルド・ダ・ヴィンチから、マイク・ケリーまで。参照。」

画像1

画像2

Mike Kelley
Missing Time Color Exercise (Reversed) #1
2002
https://mikekelleyfoundation.org/artwork/missing-time-color-exercise-reversed-1
Mike Kelley
Trickle Down and Swaddling Clothes
1986
https://mikekelleyfoundation.org/artwork/trickle-down-and-swaddling-clothes?q=

O「すごいわぁ。」

K「日本の現代アートは、沈没するしかないのです。」

O「日本の現代アート=「口ほどにもない」。」

K「口ほどにもないのですよ、梅津庸一、鬼頭健吾。端的に芸術ではない。嘘をつくなと。」

O「伝統とかクラシックを知り抜いてないと。」

K「努力していないでしょう。梅津君にしても。」

O「梅津氏は、ラフな作品の方が、まだ良い印象がありますね。零戦を描いた絵とか。軽ーい感じの。でも「軽ーい」方向性にしても会田誠のようなエネルギー量は感じられない。会田誠=「でっかいゴミ」だとして、梅津氏は「ただのちり紙」みたいな感じ。」

K「いや、芸術成立していないです。「ラフ」にやっても同様に。そんな甘いもんじゃないから。」

O「もちろん。芸術は成立してない。今後も、おそらく成立しない。」

K「ゴミはゴミです。」

O「そうですね。」

K「ゴミの「差異」みたいなことを言っても。でも、これが現状ですね。「海外では有名」も、何も言い訳にはならない。」

O「うん、全滅させるくらいしか。」

K「そう。答えは単純。掃除しましょうと。「可能性の芽を摘む」抑圧制度が問題だという共通了解なら。」

O「ど真ん中の批評を実践しましょう!と。答えは、それ。掃除。」

K「その制度に、大学・内外、作家の年齢等は全く関係ない。何を嘘をこいているのか?と。」

O「若者の「キモイ」っていうニュアンスも、ちょっと梅津氏の年齢からすると、それを使うのは、違いますよね。お前も、おっさんだぞと。」

K「梅津氏も老害ですね、そういう意味で。私は全く「可能性のある若者」を盾(=人質)にとらないが。単なる密かな人質戦争でしょう、これ。空虚な。」

「大体暗いんですよ。酒飲んで本音トークとか。」

O「梅津庸一、いい加減そのチョロイ批評、やめろ!と。」

K「チョロイは、以上。」

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