オールオーヴァーな身体
まあ、埋め尽くすと「平板」になる。
美術史上で言われる、オールオーヴァーの意味。All-over=「全面を覆う」、つまり隙間がない。それは、空間が成立しにくくなる。
いたるところに、関係に強弱がないと、息苦しいですよね。一方で、人には「埋め尽くしたい」という願望がある。
幼児的な衝動かもしれない。「ほどほどにね」ということを聞かない。欲望のままに。そこに「可愛さ」も生じるが。村上隆さんのドラえもんの作品も、そういうものだろうが。日本がそれを「売り」にしていて(ずっと)、果たしていいのかな?という疑問は、私にもある。
美術家・彦坂尚嘉さんがツイッターを連投していて、興味深い。
戦後アメリカのポロック自身のそれは、知られているようにそれ以前のフランスのアンドレ・マッソンから来ている。
行為としてのオールオーヴァーのオリジネーターとは、「子供」なのだと私は考えます。「大人」がそれをいわば剽窃したということ(ある側面では)。対象化したと言っても良いが。ポロックやマッソンの「格」が高いのは、そういう意味で。リヒター、大竹伸朗がどんどん時を跨いでその観点から「格」が落ちていくのは、その対象化の意識が希薄になっていく過程と見ることもできる。つまり、「子供」そのものへ。
意識とは別に、身体で覚え込んでいるものというのがある。オールオーヴァーというのはそれで、「ほどほどにね」という声を無視すれば、時を跨いでいつでも回帰する。彦坂尚嘉さんの70年代の作品で、画廊空間に実物のカーペットを敷いて、そこでオープニングパーティに集っている人ごと、複数の人間に頼んでカーペットをかまわず無理やりひっくり返すという趣向の展示がある。タイムラインを決めておいて、時刻ごとに。これを彦坂さん自身が(ベルリオーズの曲展開の性質と類似するとして)「狂気」と呼んでいる。カーペットに座って酒を飲んでいた人が怒って、彦坂さんは殴られたとも。あるいは、例の有名な液状のシリコンゴムを室内の床面に流すという形式の作品、これも彦坂さんは自宅以外で、実際の画廊空間でやったということで、ここでも観客が激怒したと。加えて、臭気がすごいということ。おそらく鼻をつく。このような作風にある「狂気」好きの人は、今でも私は多いと思います。
臭気を利用した作品については、彦坂さんに先駆けて私の大学院の師・工藤哲巳氏がパリで行っている。参照。
また、工藤氏の作品には「精液」に見立てた流動状の物質を、鳥籠やアクリルボックス等の立体作品中の「床面」に流した形式を持つものが、これも彦坂さんに先駆けてある。また、よりシンプル化した、これは屋外の地面だが、ロバート・スミッソンの流動状物質を流した形式の作品がある。これもすでに60年代に。
こう見てくると、「模倣主義の古い現代アート」を賞賛するのは間違いだというのは、美術家・彦坂尚嘉さん自身にも、私の観点からはよく当てはまる。
それよりも、私が興味があるのは、作家の「思考」の部分ではなく、「身体化」の問題ですね。彦坂さんがいう「狂気」の、あるいは、この場合は「オールオーヴァー」の、と限定して。
私の観点からは、彦坂さんの例えば絵画作品には、「オールオーヴァー」の身体化作用が強くある。画面を埋め尽くすように描く癖があるんですね。「ほどほどにね」と外部から言われないと、止まらない性質。例えば「グジャグジャ君」シリーズ。描く対象がいつも中央に寄っていて、隙間が無い。参照。
海外の作家は、スミッソンにしろ、ポロックにしろ、私はもうちょっと高級だと思いますよ。気品と言うものですね。