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森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第58回目。

K「森田さん、こんにちは。前々回話した「奥行き知覚」の(欠損の)例について、当事者の語りが掲載されているのがこのサイト。少し古い記事ですが(2011年)。」

発達障害「から」考える。
http://igs-kankan.com/article/2011/08/000460/

熊谷 奥行きについても、綾屋さんの当事者研究で面白いものがあります。綾屋さんは、はじめて入る場所、見慣れない喫茶店などでは、奥行きが喪失して平面状になることがあるのだそうです。しばらく困るのだけれども、そういうときに綾屋さんはおもむろに左右に首を振るんですよね。

綾屋 「エコーロケーション」と言うそうですが、反響音を頼りに壁の遠さや堅さを感じとることで、空間の広さを把握しています。その耳から得た空間情報と目からの平面情報をチューニングするのです。それと同時に視覚情報だけのチューニングもしています。首を動かして角度が違う静止画像をいくつか取り込むことで、それらを合成します。この2つのチューニングによって、だんだん奥行きの推測がつくようになり、視界がにょにょにょにょ~んと奥に伸びていきます。

「いわゆる、「当事者研究」。この方向には医師からの多分に反発もあるようです(例えば木村敏氏)。内海健氏は、当時この方向に積極化していた。「精神医学の絶望論」の文脈ですね。再読してみて、改めて気になったところを抜粋。」

内海 発達障害が社会性の要因がいちばん大きいということと関連するのですが、メランコリー型というのは、大澤真幸さんのいう「第三者の審級」がまだしっかり存在していた時代の話なのです。だから1960年代から1970年代にかけて注目されたわけです。第三者の審級があるということは、秩序や「コード」が設定されていることを、みんなが当然だと思っていている状態です。
 その第三者の審級が衰弱すると、今度はそのつどその場にチューニングしていかなくてはならない。周りに合わせていかなくてはならない。だから同調性の人にとってみれば、「こうやっておけば大丈夫だ」「一生懸命に仕事をしていればいいんだ」という今までのやり方が通用しなくなっている。そのつど、人の顔色とか、ご機嫌とかをみてやっていかなくてはいけないというしんどい状況です。
 メランコリー親和型が中心だった時代から、だんだんとらえどころのないうつが増えていくという変化の背景には、そういう社会の変化があると思います。おそらくは、発達障害の人にも、同じような問題があると思います。コードがないので、そのつど合わせていくように強いられるのは大変ですね。

「いわゆる「象徴界の機能不全」。それに伴う、社会の成員たる諸々の主体の「症状」。象徴界の機能不全という潮流も、この間言われてきて、私の主観では一周回ったという感触を持っています。また別の次元へ。」

「「発達障害」は、これまでのような「モード」では、広くなくなっていくのではないだろうか。現代アートという領域を現在見ると、むしろ「発達障害」がその区切られた領域内で「社会」制度になっている印象。「みんな平べったくなーれ」という、狭く閉じられた長年にわたる権力機構化。」

M「加藤さん、こんばんは! 問題提起、いつもながら、当たっていると思います。またのちほど返事します。」

「かねてより、加藤さんから「発達障害」と指摘を受けており、 私自身、それを否定できない。 また発達障害についての知見も、(きっと)加藤さんには敵わないということで、今回は私は、頑張らないといけないですね。」

K「「発達障害」、個人の特性というよりも、近年の文化潮流という性質をより濃く私は捉えています。だから、世代論的に、森田さんと私のズレもある。私自身は、「脱政治」「無気力」等と言われた世代。私からは、森田さんの世代は、より政治の復活性、それに「発達障害」は関わりがある一つの質を表すキーワードだと思い使っています。世代論で全てを切っていくことが有効だとは私も思わないのですが。当然、世代のステレオタイプへのフィット具合、かつ固有のズレの仕方もそれぞれが持っている。」

「私(バブル世代)の、身体化された世代へのフィット感とは、例えば「あっ」と言って、会話の内容を中断する、またはどこかへ飛ばすことが平気なところがある。その耐性が。「分裂病的」が盛んに言われた時代。「あっ」と言って、相手の話の腰を折り、逃走するのですね。粘着質な、前世代(全共闘世代)からの逃げ方。その後の世代は、よりその前々世代的な今も生きる粘着性から、(社会制度上?)簡単には逃げにくくなったという印象も私は持っています。近年、同時に起こったのが、いわば世代の圧縮。世代をまたいで多くが「発達障害」を自称し始めた。アート界で。」

M「私は、「発達障害」と加藤さんに言われて、「そうか!」と。 (いわれた時) 今展開していただいた文脈が分からなかったのですが、でも、なんとなく納得する自分もいるというか。」

K「なるほど。」

M「会田、村上、彦坂はじめ、発達障害を自称する...という身振りは、これは「無共感」です。ありていにいって、「?」。何か、あるのですかね...。」

K「現在の、例えば森田さんの世代に、前世代が文化的に「便乗」している形なのかな。「置いていかれてなるものか」と。転移(または逆転移と言ったらいいのか)。」

M「非常に、興味深いです。」

K「実際に、村上隆氏は90年代後半辺りにすでに、「下の世代が変わってきた、クソー」っと焦りを表現していた。トークショーか何かで。」

M「まさか、イーロン・マスクさんも、その手の...。「私はアスペルガーだ!」って宣言してましたね。TVショーで。拍手喝采を受けていたが。」

K「そうですね。「モード」を表現しているのかもしれない。自分はその表象だと。ゲイリー・ニューマン(アスペルガーを告白している)の重苦しさとかは、マスクには無いですね。」

M「私は、前も話したのですが、そこまで興味がなかったのですね。 加藤さんと接しているうちに、興味をもつようになってきた。 数年前、私はエンジニアだったのですけど、 想像つくと思いますが、「発達障害」(ADHD、アスペルガー)は、多いです。 一緒に仕事をするので、100%で、分かります。 そのときのウンザリした経験があって、ちょっとトラウマ的に、 興味を持たずにいたのかもしれない。イーロン・マスクがアスペルガーとは、到底信じられないです。」

K「内海健氏も、診療の場面でトラウマになったと告白している。彼らと接していて苦しかったと。」

M「「核ボタン、おしちゃいました...」みたいな。それも、いつも事後報告。そのしりぬぐいは、まわりのメンバーがやる。これ以上はBAN対象になるので、、書きませんが。」

K「そうですね。そのトラウマ体験になる言語は、社会制度上、タブーなのかもしれない。医療者が「辛かった」という、内海氏の例のような抽象的な報告に止まる。10年代の医療の「当事者研究」の方向は、その医療者側からの、当事者への丸投げ(したい)という、本音の表れなのかもしれない。「自分は深く関わりたくない」と。」

M「そうですね。言語化した部分ではないところに、いろんな闇があって、その闇も一様ではなく。まさに「個別性」。「発達障害マニュアル」に、どこまで有効性があるのか? 私自身がその性質の悪い者としての一人という可能性も加味しつつ。」

K「「個別性」に、体験が分たれている。その医療者のトラウマの下、「当事者」の囲い込み戦略。例えば「現代アート」という領域はうってつけだと。」

M「そうかもしれない。私も知らないうちに、「アート入門」。」

K「「アート入門」。まさに。」

M「だた本音をいうと、アート入門は、無理だとも、感じています...。実作を眺めるにつけて。自分の作品の陳腐さは笑える。」

K「鑑賞レベルの、アート入門は? そこは、広く取ってあるのでは。業界的に。」

M「どうでしょうね。(笑)が加藤さんに起これば、私は本望ですよ。加藤さんと対談をして、そのあと、思い出して笑うことがある。実際。そうとう面白い。この対談は。」

K「稀有ですよね。私も面白い。凡庸だと思わない。この対談。」

M「鮭の川上り...とか。ウケる。そういう部分に賭けているというか。」

K「現代アート業界は、かように間口を広くとり、集団を集めて「死」へ向かっている。「みんな、平べったくなーれ!」。「社会」への怨念。」

M「「自覚できるか」という点に差異が、ある気がしている。つまり、強弱はある。「笑える」ってことは稀有。」

K「(私が知る)医療者の本音は、一人で放っておくと「鬱」なりが発症するから、美大講師職とかに、ぶっこんどけば良いと。」

M「いかにも、真っ赤な嘘という感じですね。すべてが。医者は、いいがち。元の場所へ戻れとか。」

K「現実には、そこに「強弱」はある。「自覚できるか」という差異。そこに「笑える」可能性が。」

「鮭は鮭の死場所へと。」

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