日本的、「無」芸術時代
前回の続き。
参照。
美術家がやる「政治性」って、結局どのセクトも上っ面の情報を元に、(バカと詐欺師による)詐欺集団による「自己宣伝」とそこへの利益誘導に過ぎないので、もう見る前に見え透いていて、本当に頭が悪くて薄っぺらいよなあ。改めて。よくこんな小さな島国で、本当に「無」芸術時代だ(笑)。
私はAI時代ほど、美術家は頭が良くなくてはダメだと思いますよ。少なくとも、私ぐらいには。比喩ではなく、仮想的、遠視・立体視・透視ができるほどに。これは平たく言えば「人の気持ちが分かる」という、所謂ノーマルなこと。(自称)発達障害方向とは逆の。基本情報はネットのどこかにある、本の情報も。フラットなんですね。
日本の中で内戦的に熱情的に、全共闘以来の病的セクトゲームを継続したいという巷に見られる生ける欲望は、その主体に私の観察では、微弱な「精神病質」なものがある(特定の集団名等はここでは避ける)。パラノイアですね。重症な分かりやすい例えをするなら「私は王である、緋のマントを羽織っている」という類の。
それが実際に見られるのは、現代日本的に「私は(志村けんに表象される)バカ殿である」というような、半ば脱臼した形式。
論理が「仲間」ではなく、「他者」と共有・繋がっているということが、そこからの出口。救いの糸口である。
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