プレゼント(2)

森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第59回目。

5月27日

K「森田さん、おはようございます。ちょっと正面から芸術論を。まずは、世に言われる「現代アート=ゴミ」とは、どんな機能か?と。確認になりますが、「芸術」とは名ばかりですよ、と。その約束の共同体における共有。「現代アート=詐欺」と(長らく以前から)言われる所以ですね。デュシャンやボイスがその始祖として数えられるでしょう。しかし、例外がある。如実に。または、あからさまに。20世期後半から今日までは、アメリカがその多数だった。しかし、美術史をルネサンス以後通して見ると、どの美術の時代区分でも、その中の例外者が真の「芸術」だった。私はそう思います。ルネサンスの例外者としてのレオナルド・ダ・ヴィンチ 、モダンアートの例外者としての、ポール・セザンヌ(森田さんとの会話を通して、このことに私は気づいた)。」

M「加藤さん、こんにちは! 共同体の例外者。かねてより、我々の対談を通じて、もっとも大きなテーマの一つだったという気がしています。考えますね。」

「結局は学校教育の問題。それも初等教育の問題。ここらへんから考えないといけない。小学校の低学年のときに、私たちは、どうもおかしなことを教え込まれていくようです。逆に、教わるべきことを教わらない。それから先は「こんなもん」という感じで、無思考のまま二十歳で成人する。あとは、「こんなもん」の延長で。すべてが万事。生きていること、死んでいくことにも、なにも疑問を持たない。近代以降の教育の現場において、もっとも大きな土台となっているのは、科学でしょうね。でも、科学って別に形而上学的に、たいしたものではないのですけど、みんなは盲信している。ですが、実際は、科学では対応できない事柄の(超カオスな)総体としての現実世界がある。たぶん、この先がアートなのです。芸術の成立に深く関わるもの。」

K「「(超カオスな)総体としての現実世界」、それに実際の美術(または文学)は対応できているのか?という問いが、本当はしたいところですね。でも、できないような制度になっている、と。」

M「まず第一に、そのような説明を考えたのですが、いろいろと粗もあるような気がして。この世界は科学の各トピックでは、到底不可能な「(超)カオス」である。おそらくは、これは正しい。正しいがゆえに、「超カオス」という語で科学的に定義するのも、やはりおかしい。このようなゴチャゴチャした思考のカオスの嵐のなかで「美」だけが超然としているようです。美は、科学よりはるかに根本的な、おおきななにかとつながっている。だから、教育では無理なんですね。教育が私たちにもたらしてくれる恩恵は、生きることの「アルゴリズム」を教えるだけです。「効率化」ですね。美術教育も、おそらく同じです。昔、知り合いだった新宿美術学院の元講師が私にいっていたのは「高速道路に乗ることが大事」と。アルゴリズムだけで行くと、失敗しないのですね。私は、失敗ばかりをしています。絵を描いても、99%失敗する。すごい才能だと思っている。ある意味。」

「最近、描いたのですが、いや、酷い。私は例外ではなく、例の方ですが、それでも例外に近いのは、予備校生よりも私の方。驚くほど美術的な教養豊かな「画家」が、Twitterでウンチクを垂れ流しているのを、よく見かけますよね。自己言及癖のある画家。何人も見かけたことがあるが、その作品は、その「語り」とかけ離れて、弱い。薄くて、きれいなだけで。デザイン的で。だけど、ダビンチとか、浅井忠とかを語ってて。」

K「森田さんが、「教育はアルゴリズムだけ」という意味が、よく分かってきた気がします。」

M「大半の画家は、同じパターンの繰り返しを美だと思っているのです。」

K「何かパターンを見つけたら、それに執着する根拠があるというふうに振る舞えば、それで良いと。」

M「繰り返し、繰り返し、リズミカルに。その派生と。言うまでもなく生物の形態もそうですね。ラスコーの洞窟のごとく、生物の模写からはじまったのだから、それは自然な成り行きだったのでしょう。」

K「しかし、「パターン」と誰かから指摘されたくはない。「パターン」という響きが、他との代替可能性を示唆するから。」

M「その背景にある(と感じさせる)「精神」、アイディアが、ポイントでしょうね。パターンだけになっているのか、そうではないかの差異として。」

K「そうですね。「精神」。」

M「ダヴィンチだって、膨大なパターンの塊と見ることもできるが彼は自由自在ですね。固定されてない。」

K「そうですね。固定されていない。」

M「「相互性」の密度が、異常なほど高く。パターン間の。だからパターンを「見出す眼」が、普通の精神ではない。」

K「「精神」の捏造。現代は。」

M「捏造なのは、どこまでいっても固定だからですね。」

K「そうですね。」

M「見出してない。端的に。カタログがあるんですよ。」

K「レオナルドの場合は、もっと高速回転している。パターンの展開が。脳裏で。」

M「そうだと思う。前人未踏で。おそらく、今のアーティストたちは、「文脈」とか「カタログ」とかで、代替している。「文脈」というのは、いかにもフロイト的なもの。」

K「そうですね。」

M「精神の偽装なんですよ。」

K「偽装は疲弊しているので、パターン展開の回転が、ますます遅くなる。次第に停止=「死」。」

M「平板、ストーリー化、漫画化。この傾向は極みに達している。大切なのは、「投影」の対象となること。という風に、ズレてしまった。疑似の「父」だったり「母」だったり、「恋人」だったり。」

K「「芸術の死」って、最初に誰が言ったのか(ヘーゲル?)、しかしその「文脈」もおそらく単純すぎて。」

M「ヘーゲルですね。たまたまルネサンス以降と重なって、都合が良いのだと思うのですが。例えば、ヘーゲル(近代)以降は写真の時代だ、と。そんなふうに。」

K「それですね。」

M「なんとなくズルいというか平板な話ですよね。写真も、やはりその大半が「投影」のメディアだと感じます。「精神」の表現たりえているか?というと...。」

K「何か、すごく核心に近づいている。」

5月28日

K「森田さん、例えば「精神主義」と言うと、嫌う向きが多かった。戦前の軍国主義みたいだと。それが「体育会系」等に残っていて、嫌悪の対象となっている。オリンピック反対、とか。」

M「加藤さん。鋭い指摘ですね。なにをもって「精神」というか。」

K「「教育」に関しては、端的に「教わりたくない」という感情。どうせ、無意味にしごかれるんだろう、そのしごきの主体の無価値な快楽、または自己満足に帰結するのだろうと。」

M「たぶんですが、(いうまでもなく)「精神」を、的確に一言でいう事は、できない。」

K「総合格闘家の朝倉未来が、プロとしての格闘を「教わりたくない」と言っていた。仲間と朝練をそれまではしていただけだと。走り込みも、ミット打ちもしたことがないと告白すると、周りの先輩格のプロが一様に驚く。去年ぐらいから、元世界チャンピオンのプロボクサーに教わりに行ったりを始めたが、またやめたようですね。筋トレマシンを自宅に買い込んで、トレーナーを雇って、また仲間とだけやっているという循環。」

M「宮台真司がアベマか何かで「不幸な奴に、教育なんてできない」って言ってましたね。正確には「不幸なヤツに教育者なんて勤まるはずない」かな。この「不幸」って何だろう?というのは、考える価値があるかもしれないなと思います。」

K「「他者」がいない、っていうことですね。」

M「「教育」に関しては、端的に「教わりたくない」という感情...不幸な奴には教わりたくないですね。」

K「「自分」=「仲間」しかいない。」

M「いまの「教育者」のほとんどが、なにかの「集合」に属する何者か、ですからね。」

K「例えば朝倉のように、「仲間」=ヤンキーの種別性に閉じこもる。」

M「美術業界、たとえば私なら「シゴかれた」芸能界。同じ風に、なっているでしょう。大なり小なり。」

K「芸能事務所に入ったら、教育を拒むのは無理でしょうね。」

M「ええ。無理でした。教わったことは「考えるな」だけ。あとは、ネグレクトと、そそのかし。精神とは何の関係もないです。」

K「そういうものですか。演技とか歌のレッスンとか、もっと密なものかと思っていましたが。」

M「あまり、詳しく書けませんが。ですが、要するに加藤さんが仰った「仲間内」の延長です。その集合に包含するのか、しないのか。要はそこしか見ていない。考えずに、唆しに乗る「いい子」が、良いわけです。演技とか歌のレッスンも、そのためにこそ、あるのです。「そそのかされる」ことすらないような、可哀想な人たちも、大勢いますが。」

K「なるほど。総合格闘家がジャンルの違うボクサーに教えを受けに行くというパターンがある。あるいは、キックボクサーがボクシングに転向とかも。伝統的に、ボクシングの基礎は確立されている、学ぶべきものが多いという発想でしょうが、側から見ていると、生かせていない感。」

M「それも「ねっ?」って感じですよね。分かりやすい。」

K「これなどは他者感覚が強く、刺激及び内容豊かだったはずだと思うが。回転軸としての、腰の置き方とか。内山高志。」

ボクシング元世界チャンピオンの内山さんに教えを乞う 
https://www.youtube.com/watch?v=EjmSMAEUh3g

M「内山高志も遠慮してない感じですね。本当に他者に出会うというのは、大変なことなんです。」

K「内山高志は、自分の基礎を確立させていると同時に、教えること自体も、確立させている。それに対して朝倉は、教わること自体にふわふわと違和感がある表情。」

M「ずっと内山の方が、真剣です。」

K「絶好の他者だったはずだが、朝倉は逃してしまった感。」

M「まさに。朝倉は「俺のアルゴリズムで十分だ」というのが本音。もし、前回の議論ですが「マシン」=刺激こそ重要、という地点で止まっているのだとしたら、残念ですね。刺激なんてものは、本当に些細な事です。」

K「あと、これも昨日見たのですが。弟の朝倉海が、メイウェザーのジムに他流スパーリングを申し込んで。弟に関しても、(森田さんが述べた芸能事務所とも通じる)同様の問題を感じた。」

メイウェザーのジムに殴り込みにいったら返り討ちに遭いました
https://www.youtube.com/watch?v=g5AsjwnC4Sg

M「なんでしょうね。精気がない顔をしている。目がね。トロンとしてる。」

パンチ強すぎ!全盛期マイク・タイソンのトレーニング【ボクシング】
https://www.youtube.com/watch?v=pJQJVRAp8ng

「これとか、マイクタイソン。これが、本当の精神という感じがするんですね。ダイナマイト!な。本質的に「経験」とかじゃない気がするんですね。」

K「本当ですね。タイソン。」

M「ボカーン!と爆発してる感じ。たぶん、経験が浅くても、この爆発感は、あったんじゃないかなと。タイソン少年を見て、虹のオーラがまとっていたと。当時のトレーナーが証言している。」

K「目が違う。ボクシングという「他者」を見つめている。いわば、無限遠点の。」

M「マイクタイソンの場合は、トレーナーのカス・ダマトが死んでから、一気に転落していったので。分かりやすい例ですね。全盛期は、本質的な他者性があったんですね。」

K「そうですね。タイソンの場合、転落の仕方が激しい。また「路上」へ戻ってしまった。噛み付いたり、レイプしたり。」

M「ほんとうにわかりやすい。」

K「他者を見失うと、人間は。」

M「世間一般で言われる意味でも「頑張れない」ですからね。一人では。やはり。そこらへんが微妙なところ。」

K「総合格闘技は、日本人にとってコロナ禍の間の多くが享受した娯楽の一つだったが、肝心の他者はずっと見失っていた。」

M「集合の一部としてしか機能していなかった。コロナ期は、結局シバターが、全部。」

K「シバター か。」

M「あれが最終段階だったと。コロナ禍で、図らずも露呈した形。」

K「中心(シバター )が、図らずも露呈した。」

M「「虚無」の表現だったんですね。この国の格闘技は。図体だけデカイ奴らたちで。」

K「そうですね。「虚無」で何をやっても、怪我が多くなる。」

M「今年、「虚無」とは対極の「有事」というトリガーが引かれたときに、虚無にまみれた日本中が湧きだった。不謹慎な記述だが。なにかに目覚めるような形で。シバターとか、吹き飛んだ。」

K「そうですね。前に語った、内海健の三島論(『詩を描く少年』)の話題。対象(他者)との主体の「離隔」を、一時的に消去するかに見せる(破局的)「戦争」。」

M「そのようなものとしての連鎖反応ですね。」

K「そうですね。「離隔」は離隔のまま。」

M「本当の「他者」とは、もっと複雑精妙なものなので。」

K「そうですね。どちらかというとメイウェザーの悪い振る舞いなど、私は好きですね。まさに、精妙なところがある。よく見ると。たえず、いろんなところを見ているし(上記動画)。すでに現役引退(現在45歳)しているにもかかわらず。」

M「いまだに、格闘技界の中心点という感じで。彼で業界を持たせているような感じですね。あそこまでのタレントはいない。」

K「見習うべき。」

M「ボクシング界という「機械」の動力源として。あれもあれで、本物の他者性という気がする。他者性を持った人は、関わるあらゆる人やものが、その人に関与して「連鎖」するのでしょう。」

K「コロナ禍で、「現代アート」は静かだった。誰もが他者を見失っている。身内の権力関係しか見ていない。上記「いろんなところを見ている」のは、意味が違う。権力構造の緒人の顔色をうかがうのとは。」

M「「ピグマリオン効果」じゃないですが。その者の精神を起点として、外界がどんどん変わっていくという。アップルのジョブスは、この力が、きわめて高かった。次元歪曲装置といって、揶揄されもしたが。本人は、じつはプログラミングもわからない。ハードウェアも分からない...と。」

「美術/芸術の場合は、「美」がゴールという過酷な世界ゆえに、経済や格闘技よりも、たぶん、ハードルは高い。ハードルが高い=抽象度がこれ以上ない程、高い。」

K「ジョブズ、工業デザイナーですよね。総合的な。」

M「そうですね。20世紀後半の象徴みたいな。単純な比較は、できないと思いますね。アート界と、他業界は。」

K「その後、イーロン・マスクのような、また異質な存在が出てきたが。芸術はまた違う。おっしゃる通りに。芸術に関してが、今、一番情報がないと言って良い。」

M「これもアベマで見たのですが、今後の教育について議論されて。三角関数は不要か?というやつ。そのなかで「子供の内に、いろいろ勉強してみて、美しい!楽しい!と思えるジャンルを見つけて、あとはそこに取り組むのが良い」って意見がでた。」

K「実際、日常生活で三角関数は全く使いませんね。」

M「「美しい」という第一感。これは、説明ができない。言語の限界を超えたところにある。」

K「私は、中学までは数学が一番好きでしたね。数学以外に、何か勉強する意味があるのか?とも、本音で思っていた。」

M「そうそう。数式が美しい!って思える子は数学に打ちこめばいいんです!って、言ってた。その論者は無意識に「美」を口にしている。」

K「なるほど、それは感覚としてよく分かる。」

M「だから、生きる上で。これほど抽象度の高い概念は、ない。」

K「「美」、私は一番重要だと思います。普遍的。」

M「普遍的過ぎるので、危険さも。」

K「なるほど、心の奥底で恐れられている真の対象。美。」

M「たとえば数学界でも。あの業界が廃人だらけなのは、周知の事実。」

K「そうなんですか!」

M「統失だらけ。うわべの1%の人たちが、社会では背広を着て、広告塔をしている。」

K「なるほど。茂木健一郎氏は、数学はつまらん、物理はセクシーだと。」

M「茂木さんもいろいろ見ているでしょうからね。生理的に無理だったのか。物理屋はファンキーだ!って言ってますね。」

K「彦坂尚嘉氏は、「物理屋は野蛮人だ」と。自身の経験に照らして。」

M「「現実界」だけ、と。リチャード・セラを例に挙げていた。」

K「そうですね。核兵器とか作る人間。人間を、でっかい爆弾で踏み潰す人間。」

M「他者性がないわけですね。」

K「物理屋は、他者性がない。マスクも、自分を物理学者と。」

M「茂木氏はどこかで「まだ(物理では)時間を表現する理論がない」といっていた。いつになく、シリアスな顔で。どこか物理の「欠損」を嘆く感じを表明していた。」

K「そこを、避けないで積極的に語ってもらいたいものですよね。茂木氏、そこしか本当には存在意義がないのでは。」

M「動画のコメに、私は親切でロバートモリスの論文のURLを張り付けたのですが、速攻で削除された(笑)。激怒されてしまったか...。」

K「なぜ、そこで激怒するのか?」

M「ダヴィンチってさ、絵は上手いけど。別に言ってることはレベル低いじゃん?って。後に、アンサー動画をあげていた。コンプですね。コンプレックス。」

K「やっぱり、本当に「美」が嫌なんだ。すごいですね、そこまで行くと。」

M「すごい。あれは。可愛い。激怒っぷりが。可愛い。」

K「本当に思っていること。それを口にする凄さ。「自己」しかいない。」

M「物理屋じゃ、到達できません。芸術は。」

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