対象aを追っかける
森田靖也(旧表記:オマル マン)氏との対談、第66回目。
K「森田さん、こんにちは。内海健の三島論『金閣を焼かなければならぬ 林養賢と三島由紀夫』(河出書房新社、2020年6月)を読み終わりました。総じて、中々面白い内容でした。金閣を焼いた僧侶・林養賢と、それを題材として小説『金閣寺』を書いた三島由紀夫の対比的考察。精神科医・内海健は、前者を当時の診断資料等を元に、「分裂病(統合失調症)」と判断、後者の精神病理を「離隔」という語で主に表現。主体が見ている環境世界、あるいは特定の対象からの、自己の「離隔」ですね(ちなみに、内海は三島を表すのに「自閉症スペクトラム」という語はこの書で一度も使っていない)。」
「本書からの引用。」
「これを、どう捉えるか?」
M「加藤さん、こんにちは。問題提起、ありがとうございます。今まで一貫して、問い続けてきた「虚無」ということについての、Ωのシンボルとしての三島由紀夫。これは明らかに、あると思っています。「戦後」を生きてきた日本人として、一回は真剣に向き合わないといけない。三島由紀夫のコンテンツは、何度も何度もリバイブされ、その都度話題になるのがその証左です。2年前に公開された「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」これも話題になりましたね。あのときのインテリたちの反応で分かったのが、「三島信仰」。」
K「その映画は、私は見ていませんでした。」
M「東大全共闘のガキンチョが三島に絡んでて。そのガキンチョたちが、歳をとって回顧するという内容。」
K「小阪修平等が参加していた集会ですね。三島との討論会。」
M「そうですね。その前提から考えてみたいのですが、はたして、内海氏も、どのくらい「三島信仰」から距離をとれているのか?ということが、気になるところです。」
K「そこは気になりますね。内海氏自身は、左翼運動(の東大にある名残)には、医学生としての距離(というより嫌悪)を持っていたとどこかで表現していたと思いますが、「三島信仰」自体には、距離は取れているのかどうか?」
M「上記の映画のレビューなどを見たことがあるが、多数が「世間知らずの唯我独尊の餓鬼が、三島さんに何を言う!」という反応。」
K「それは、すごい。」
M「オウムよりも怖い。三島。」
K「現代アート界にも、「三島信仰」はある。」
M「傑出した宗教家としての三島、というのは、そこまで的外れではないと思うのです。三島の全集は、たびたび読むのですが、「感染力」がすごいのですよね。とくにエッセイ。小説には三島の真の姿はない。」
K「「対象a」としての、三島でしょうか。皆が持っている「弱さ」を代表するような。多くの人が、そこに愛着を。」
M「そうですね。三島を現代の空海みたいな感じで、捉えている可能性がある。多くの人が。対象aですね。」
K「嫌悪を示す人も、実は、深刻なレベルで、というのがある。」
M「嫌悪を示す人も、囚われているのですよね。三島の対象a性に。」
K「まさに内海氏が指摘している精神の「離隔」問題に関して、日本人の多くが共有感覚がある。」
M「「ミニ三島」が欲しくてウズウズしているのですよね。日本人は。日本人って、奇妙に「早熟な」人格を求めますよね。対象aっていうのは、「早熟さ」だと、個人的には目をつけていて。」
K「「ミニ三島」はたくさんいますよね。現在も。そういう意味で、精神病理学上「離隔」問題は、現在(日本において)最もアクチュアルだというのは、内海氏が言いたいのは、私は理解はできます。米からの「日本の(軍事的)自立」を知識人から口をついて出るのも、そういう現象の一つですね。「ミニ三島」の表れの一つ。自分たちが所有するはずの、領土・空間からの、どこか隔絶感。」
M「そうですね。「核保有」、とか。」
K「そうですね。極論として。「自立」するにはと。」
M「その思考回路には、「粘り」がない。じじつ、日本人の3倍は根性がある。白人は。」
K「そうですね、つい口に出てしまう、という「芸」という形で。」
M「根性なしの器用な芸達者というのが日本人。可愛いと。世界からは笑い者になっている。」
K「「反米」ですね。皆(現代アートやインテリ界隈が)がまとまる、キーワード。」
M「「反米」といってれば、楽ですからね。戦後の「悲しみ」から切れることができる。ひとときだけ。」
K「ここに自己撞着がある。「離隔」よりももっとストレートに「自閉」と言った方が良いと私は思うのですが、「自閉」感覚に愛着を持ちながら、アメリカに支配されたくない、同時に「自立」したいと。軍事的クールな(ウクライナ有事でメディアに多く登場するようになった)専門家からは、自立したら(=世界空間に単独で晒されたら)、即死だろうという。そういうクールな本音。」
M「現実の方では、 ずっと悲しみに向き合うべきで、責任も取り続けないといけないですからね。 即死する危険とも。敗戦国なのだから。」
K「そうですね。もう一つの現実として、日本は同盟国アメリカと戦時を想定した場合に、アメリカの指揮下には入らない形を取っているそうです(高橋杉雄氏)。韓国は違うと。NATOの場合も同様に、アメリカが全体を指揮。日本だけが、実際に「自立」の行動の前提になっていると、元々。」
M「韓国は、すごいですよ。いろいろ。政治の知恵が。あんなの真似できない(笑)。」
K「日本人は、そこはできませんね。アメリカから何かを教わりたくはない、という本音。」
M「笑っちゃうくらい、遅れてるんですよ。日本は。」
K「その本音で団結する。だから、日本人の「離隔」問題は、自ら再生産、していると言える。その無限ループに、内海氏の論も乗っかっているのではないか?という、私の疑惑。」
M「日本の一番深い問題として、「抽象」に考えることが苦手なのはある気がする。芸術と照らしても。日本人の「離隔」問題も、そこがあるんじゃないか?という。内海氏の論の組み立て方も、すごく「自然」な印象。端的に、デザインが好きなんですよね。」
K「自分が好きな何か対象に、触っても、触った実感が持てないという。「離隔」。「言葉」だけで、世界を掴もうとする。一方、身体性、例えばお笑い芸人の反射神経も、閉じられた「輪」の中の循環的なもの。どれほど高速になろうとも。その息苦しさを、(芸能界)内部から見て、脳科学者・茂木健一郎氏は「日本のお笑いはつまらない」と指摘。西欧の「ユーモア」は、もっと「外部」的なストレスにさらされてできるものだと。カフカも、おそらくそうですね。」
M「カフカもリゲティもユダヤですし。絶えず「耐えている」感触。ぐっーと。」
K「そうですね。「耐えている」身体性、(カフカのように)痩せていようが、太っていようが。」
M「それとは対照的に、三島は「我慢できない!」ていう顔。「もう我慢できない!」といって、自刃した。」
K「確かに、我慢できない顔。駄々こねっ子。石原慎太郎が文学者から政治家になったとき、置いていかれたように、母親に対して「つまんない、つまんない」と言っていたと。しかし、三島は西欧に対して、日本の芸術家の表象(=代表)に、今でも。日本=「可愛い」文化は、その派生。」
M「よく三島文体を評して「知的に、明晰に、」って言われますが、個人的には「はあ?」って感じで。どこが?と。」
K「皆、そこに乗っかっている。内海氏も「デザイン」好き。おっしゃる通りに。ただ、一点だけ同書に見るところは、「三島の見ている世界は映画の書き割りのようなもの(平板)。絵画に例えれば、そこには不可視の無限遠点が欠けている」と言った箇所。」
M「茂木がバートランド・ラッセルが好きというのは、三島への当てつけって感じがしてて。茂木にストレートに三島ってどう思う?ってライブで聞いたことがあるんです。ソワソワソワして、「いや、俺はよくわからんわ...」と。目が泳いでました。」
K「本人は、明晰って感じじゃないでしょうね。おそらく、言葉による模造品の感覚、見ている世界を。プラモデルとか、そういうもの。」
M「全集で三島の二十歳くらいの文章を読むと、すごい早熟だし、 詩的な感染力が横溢してて、 こんな二十歳いるんだ?って、圧倒されるのですけど、 ただ、知的でも明晰でもないですね。空海的。ただ、強いんですよね。この系譜。最近だと古井由吉。このまえ死にましたけど。カリスマ化する。」
K「「三島を現代の空海みたいな感じで、捉えている可能性がある」、これはどういう点でしょうか?」
M「「対象a」ということで言いました。」
K「なるほど。」
M「早熟な人格=対象a、という点ですね。そしてカリスマ化していくと。信望者が、すごいいるんですよ。ウザイくらいに。その信望者が、文藝評論家とかになって。影響力を保持していく。」
K「欲望の原因としての、三島。その系列、連鎖ですね、日本に一貫して見られるのは。」
M「大江健三郎も三島と同じくらい「早熟」でしたが、大江の場合は、「早熟」から脱した、非常にレアなケースだと思っています。障害児を子供にもったことが、脱皮できた要因かもしれない。」
K「欲望の原因としての、三島。二十代前半で衝撃的書で才気を見せ、世に登場というパターンですね。私から見ると、「この方、全然芸術音痴なんですけど・・」。」
M「芥川龍之介。が近代以降だと、最初のモデルかも。」
K「そうですね。」
M「全然芸術音痴→これ、芥川もその印象あります。」
K「芥川、そういえば、私はちゃんと読む姿勢を持ってはいなかった。これまで。」
M「芸術オンチの代表格は、芥川、三島、小林秀雄。対して、川端康成は驚くほど、慧眼。」
K「芥川については、内海はこの書でも(以前からも)言及しています。「分裂病」の文脈ですね。「神は雲から神経の中に降りてきた」と。芥川の文を引用し。エッセイかな。死の前の[※死の二週間前]。」
M「詩人ですね。皆。芸術オンチ組。そういえば。(笑)」
K「分裂病=天才のイメージですね。」
M「そうですね。」
K「それに内海氏も魅了されている。実際は、三島も足を使って「営業」の賜物。」
M「天才でごめんなさい、と。みんなやってると。「天才」の方々。」
K「名刺を作って、リュック背負って、中に作品ファイル入れて、目立った展覧会のオープニング・パーティ巡り。それが90年代以後、形式化した。ゼロ年代以後、学芸員・東谷隆司が美術手帖に「アーティストのなり方。ポートフォリオの作り方」という内容の記事を書いた。東谷の自信作。懇切丁寧に書いたという。記事の最後に「これを忠実にやっても、(本物の)アーティストにはなれません」と書いたと、私に言って東谷は、やってやったと言わんばかりに、一人ウケしていた。」
M「「アーティストのなり方」、皮肉が効いている。」
K「そうですね。アイロニー表現ですね。」
M「実際に、以降も、ミニ会田みたいなのは、いっぱいるでしょうね。いまは、SNSもあるし。インスタもある。YOUTUBEも。」
K「そうでしょうね。私は目を配って実際には見てはいませんが、おそらく。」
M「加藤さんみたいに生来「明晰」な人がアーティスト。私にとっては。」
K「ありがとうございます。自分で肯定するのもなんですが、その通りですよ。それをストレートに言う森田さんも、希有な存在だが。」
「「離隔」は、二重構造で見ないと。「離隔」を解消しようと、「輪」の中に入っていこうとする努力、その「輪」が、日本の場合深刻なさらに「離隔」の表象なので。」
M「そうですね。二重構造で見ないと。時代によって「乖離」の仕方も変わっていくだろうし。新しいものをおっかけても、無駄なんですね。」
K「無駄ですね。表層を撫でているだけ。撫でる分だけ、「離隔」感は増すはずなので。最後は三島のように、「破壊」。」
「日本人であることが、どれだけハンデか。こういう問題ですね。問題でしかない。」
M「問題ですけど、陰謀論じゃないですが、「外部」も積極的に隠ぺいしている気配はある。日本人は自閉症児のままでいてほしいと。」
K「内部と外部の共謀がある。」
M「ある気がしてならないですね。たとえば野球を見てても、すごいある。その隠ぺい共謀。」
K「そうですね。「日本人=離隔」という扱いは、「内部」の内海氏だけではない。」
M「わざと壊すためのトレーニングを推奨する。日本人コーチ。でもたまに落合みたいな人は、それを全部拒否して。」
K「内海氏自身の言説が、外部からは相手にされない。そんな「自己言及」しても。三島だけが、世界で流通する。「サブカル」として。」
M「我が友、ヒットラー。とかですよね。」
K「それ読んだかな。」
M「加藤さんが仰った通り、まさに「サブカル」。」
K「なるほど。」
M「フランスでは(おそらく日本の漫画などの文脈込みで)けっこう頻繁に上演されている。日本人の作品の典型、みたいな感じで。北斎、広重、三島...と。」
K「そういう扱いですよね。北斎は芸術枠だが、三島はデザイン。」
M「その3名で日本を表象されるというのが、きつい部分ですね。できるなら、もっと掘ってほしいですが。大江健三郎はノーベル賞とってますけど、全然読まれてない。」
K「北斎、川端、靉光とかでも。」
M「そう。日本人からすれば、そうですよね。なにに忖度しているのか?と」
K「煎じ詰めると、「外交」でしょうね。あんまり本当のことを外的に、示せない。」
M「内海氏は忖度してはないかもしれないが、ここらへんの、最深部のポイントには接続されてない。靉光はそんな感じしますね。ポロックも顔色なからしめてしまう。」
K「そうですね。知識人の「世間」に絡めとられているせいでしょう。肝が。」
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