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火の祭祀を否定した釈尊の教えとパーリ経典の記述には齟齬があるのか?
以下の拙動画にコメントを頂いた。
動画の配信いつもありがとうございます。 儀式の火には意味も 価値もないとお釈迦様はおっしゃっておりますね いっぽう、スッタニパータ、大いなる章の マーガ、セーラの箇所で、 正しく祀りを行うならば、梵天界へ生まれる 火への供養は 祭祀のうちで、最上のものであるとも書かれておりました。 これはどのようにとらえたらよろしいでしょうか??
動画で取り上げた「Dutiyaaggisuttaṃ 第二の火経」(AN 増支部7-47)に説かれるバラモン教の「火の祭祀(供儀)」への批判と、スッタニパータ所収の「セーラ経」などの記述に食い違いがあるのではないか、という質問である。ざっと調べて、以下のように返信した。
コメントありがとうございます。〔スッタニパータの〕セーラ経には、
「火への供物は頂点たる供犠である。サーヴィッティーは聖語のうちの頂点である。
王は人間のうちの頂点であり、諸々の河のうち海が頂点である。
星々のうち月が頂点であり、太陽は輝くもののうち頂点である。
功徳を願い、供養する者たちにとって、僧伽が頂点である」と。
とありますね。この偈の3行目までは、世間の常識を述べています。
釈尊が言わずとも、世間の人が当たり前に思っていることです。
(王を人間の頂点とする、というのはバラモンにとっては面白くない話ですが、古代インドのコンセンサスとしてはそうだったでしょう。)
そのように、常識に類することを述べておいて、最後に釈尊が「供養の対象としてはサンガが最上なのだ」と宣言するのです。
これは強調のレトリックなので、釈尊が火の儀式を評価していた、という話ではありません。
ちなみに、『長老偈』には仏弟子になったバラモンが火の儀式をしていた過去を振り返る偈が残されています。
じつに私の利益のため、仏陀はネーランジャラーへおもむいた。
私は彼の法を聞いて邪見を捨てた。
私は種々の供犠祭を祀り、火への供物を捧げていた。
「これが清浄である」と考える、盲目の凡夫であった。
見という叢林に入り込み、執着によって迷っていた。
清浄ならぬものを清浄と考える、盲目の凡夫であった。
私の邪見は捨てられ、諸有は全て破られた。
私は如来を供養されるべき火として、捧げ、礼拝する。
私の諸々の愚痴は全て捨てられ、有愛は破られた。
生の輪廻は消失した。いまや再有は存在しない。
バラモンの火の儀式を行なっていた自分を振り返って、邪見に執着する「盲目の凡夫であった」と述べています。
釈尊のもとで出家して真理に達した彼は、その悟境を次のようなレトリックで表現するのです。
「私は如来を供養されるべき火として、捧げ、礼拝する」と。
以上、参考になれば幸いです。
このコメントに対して以下の返信が届いた。納得してもらえたようで、よかった。
ご解答頂き、誠にありがとうございました。 よく理解できました。 「私は如来を供養されるべき火として、捧げ、礼拝する」 すばらしいですね これからも佐藤様の動画配信、楽しみにしております!
~生きとし生けるものが幸せでありますように~
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![佐藤哲朗(nāgita)](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/2294430/profile_f7107814ea23f5396a96f1e4098f8e8d.jpg?width=600&crop=1:1,smart)