弥勒(マイトレーヤ)を待ちわびて|仏陀再誕はあり得ない ①
弥勒(マイトレーヤ)とは何者か?
東日本大震災で大きなダメージを受けた日本国のみならず、世界中で政情不安や社会不安、金融不安などが渦巻いています。実際、社会の変革期に入っているなぁという感触を抱いている人は少なくないのではないでしょうか? 精神世界やスピリチュアル界隈では、二〇一二年にはアセンションが起こるなどと、よく分からない終末論もどきの言説が交わされていました。ノストラダムスの大予言から、まだ十数年しか経ってないのに、人類の「終末依存症」には困ったものです、本当に。
不安が蔓延した世の中には、必ず「我こそは救世主なり」「仏陀が再誕した」とかいう誇大妄想狂のカルト宗教が元気になります。そういうときに、仏教のボキャブラリーからよく引き合いに出されるのが「弥勒菩薩(サンスクリット語でマイトレーヤ、パーリ語でメッテッヤ)」という存在です。
一般的には、五十六億七千万年後に現れるとされる未来仏(将来仏)ですが、下生(降誕)するために兜率天(とそつてん)という天界でスタンバっているという設定から、天変地異や社会不安が起こるたびに、「いまこそ弥勒下生のときじゃー!」と騒ぐ人々が現れたわけです。
この弥勒(マイトレーヤ)の観念は十九世紀以降には西欧にも移入されました。老舗(しにせ)のオカルト組織・神智学協会の人々を中心に、世界教師マイトレーヤの降誕を計画するグループが結成され、マイトレーヤの霊を受け入れる器として、インド人のジッドゥ・クリシュナムルティ(一八九五〜一九八六年)が「見出された」のです。
ところが成長したクリシュナムルティは「いかなる宗教組織や宗教的権威によっても真理に到達することは不可能である、『条件付けられた』精神から自ら覚醒せよ、自由になれ」云々と宣言し、自らを祀り上げる教団組織を解散してしまいました。しかし現在も、「マイトレーヤの出現」を主張しているニューエイジ系のグループがいます。仏教史の中から現れた無数の“キャラ”の中で、現在進行形で最も「熱い」存在は弥勒(マイトレーヤ)だったりするのです(釈尊を除く!)。今回は、この弥勒について言及された経典を読んでみます。
『転輪聖王獅子吼経』について
現代では限りなくいかがわしい存在になっている弥勒(マイトレーヤ)。しかし、お釈迦様の言行録として編纂(へんさん)されたパーリ経蔵にも、わずかながら記録があります。その点では、地蔵とか不動とか観音とかに比べれば、はるかに由緒正しい存在です。とはいえ、長部・中部・相応部・増支部の四つのニカーヤに限れば、一件しかヒットしない。それも比較的後世に編纂されたと推測される長部26 『転輪聖王獅子吼 Cakkavattisīhanādasuttanta』の隅っこに「ではついでに……」という感じで語られているだけなのです。この『転輪聖王獅子吼経』は大変長い経典ですが、内容は比較的簡単に理解できる歴史寓話になっています。以下、ざっと筋を追ってみましょう。
世襲されない転輪聖王の資格
お釈迦様がマガダ国のマートゥラーに住んでおられたときのこと。比丘たちを前にした「自灯明・法灯明」に関する説法の中で、釈尊はおもむろに転輪聖王と呼ばれる理想的君主が世界を統治していた時代の伝説を語り始めます。
ダルハネーミ(堅固王、堅念王)という転輪聖王が君臨した時代、世界(インド)は武力によらず法(道徳)によって平和裏に統治されていました。世界は豊かに繁栄し、人間は八万歳もの長寿を謳歌し、人々の心は清らかで、殺人はおろかわずかな盗みすら存在しませんでした。
当時も王の位は世襲でしたが、転輪聖王としての資格は世襲ではありません。ダルハネーミは頭上に常に輝いていた「天の輪宝」の位置がずれたことを目撃し、自らの死期が近いことを悟りました。彼は王位を長子に譲ると、世俗の執着を断つため衣をまとって出家してしまいます。前王が出家して七日経つと、転輪聖王の証(あかし)である「天の輪宝」は消え去りました。動揺した新王は、出家した先王(王仙人)のもとに赴き、理由を問います。先王は息子にこう諭しました。
つまりこれは、王位は世襲できるけど、転輪聖王になるためには自分で努力しなきゃダメだよ!という話です。それ以来、転輪聖王から王位を譲られた王族たちは、代々、先王から転輪聖王に相応(ふさわ)しい統治のあり方を学びました。そして自らの努力の結果として、天の輪宝の下で世界を統治する転輪聖王になったのです。そこで、天の輪宝が現れる条件である聖なる転輪聖王の務め、つまり転輪聖王の統治思想について、この経典で詳しく語られています。第十章で再び転輪聖王獅子吼経を取り上げる際に紹介します。
「富の再分配」を怠った結果の社会混乱
ダルハネーミから代々続いた転輪聖王の統治ですが、七代目の転輪聖王の長男が八代目の王位を引き継いだ頃から、理想世界の秩序に陰りが生じ始めます。
先王が出家して七日経つと、例によって「天の輪宝」が姿を消しました。八代目の王はその事実を知って不快に感じますが、これまでの転輪聖王のように聖なる転輪聖王の務めについて先王(王仙人)に尋ねることはせず、自分の考えで国を統治し始めました。当然、うまくいきません。そこでしびれを切らした聡明なる王宮の臣下たちは、「自分たちも聖なる転輪聖王の務めを受持しているので、どうかお尋ねください」と王に進言したのです。八代目の王は彼らの進言を容(い)れて、先王に倣(なら)った正しい統治を始めました。
しかし、ただ一つだけ、重要な政策が抜けていました。王は、貧しい国民に財産を与えることを怠ったのです。現代風に言えば、「富の再配分」を行わなかったことになります。貧困者たちに財産が与えられなくなると、当然、貧困が拡大します。そこで切羽詰まった貧しい国民が、初めて「盗み」を犯してしまったのです。盗人を捕縛した王は、気前よく金を与えて「これで生計を立てて家族を養え」と言って釈放しました。しかし「富の再配分」という政治家の仕事は、相変わらずサボったまま。結果として、他の困窮者がまた盗みを犯すことになる。それでまた王が犯罪者に金を与えて釈放する、ということが繰り返されました。
厳罰主義によって混乱に拍車
八代目の王は、近視眼的な温情主義をとって王様ぶることばかりに腐心して、自らの失政が貧困層を拡大させたことに気づかなかったのです。これではモラルハザードが起きても当然です。窃盗犯を捕まえては財産を与えて逃がすという、自ら招いたイタチごっこに疲れた王は、ついに犯罪者を厳しく罰することを決断します。それ以後、盗みを働いた者が捕縛されると激しい拷問を受けて処刑されるようになりました。
しかし、これも裏目に出ます。王の厳罰主義におののいた貧困者たちは、盗みに入る際には(目撃者が残らないよう)殺人を犯すようになりました。王の方針転換によって、社会の治安はますます悪化したのです。
社会規範が壊れてゆく
寿命が四万歳になった次の世代では、窃盗犯が王に捕まっても、取り調べに対して「故意に偽り、語る」ことが起こります。罪を認めたら処刑ですからね。為政者(王)の失政に始まった世界凋落の(ちょうらく)は、「偽り、嘘」の横行によってさらに加速されます。「寿命が四万歳の人間も、その子は寿命が二万歳になりました」。次の世代では、「あいつは○○の罪を犯した」として他人を中傷する「両舌」が拡大し、人間の寿命は一万歳に減りました。
この世界にイケメンとキモメンの差別が生じたことで邪淫(じゃいん)が拡大し、寿命は五千歳に減ってしまうことになったのです。
そこからは坂を転げるように、悪口と綺語(きご)、貪(むさぼ)りと怒り、邪見といった悪法がはびこり、人間の寿命は「ある一部の者たちは二百五十歳に、ある一部の者たちは二百歳になりました」。最後に増大する悪法は、「母に対する不孝、父に対する不孝、沙門に対する不恭敬(ふきょうけい)、バラモンに対する不恭敬、家の長老に対する不敬」で、人間の寿命は百年にまで縮まるのです。
寿命が百年のときに現れたお釈迦様
経典の記述によれば、この「百年」という寿命を生きている人類こそが、現代の私たちなのです。今この世に存在する悪徳や混乱のすべてが、この時代に出揃った、というのが経典の説明です。
そして、お釈迦様が現れたのもこの時代です。理想化された転輪聖王の御代に比べると、ずいぶんひどい世の中だなぁと思うかもしれません。実際、お釈迦様が生まれた時代もひどかったのです。インドのガンジス川流域では十六大国と呼ばれる国々が覇(は)を競い、領土や資源をめぐって絶えず戦争を繰り返し、人々は塗炭(とたん)の苦しみにあえいでいたのです。しかしその一方で、インド社会は貨幣経済や都市文明が発達し、人々は進取の気質に富んでいた。そういう社会の混乱期にして成熟期という絶妙な、しかしギリギリのタイミングで、釈迦牟尼ブッダが現れたのだ、と仏典は説明するのです。
ともあれ、統治者たる王が、貧しい人々への施しという公的な「富の再配分」を怠ったことで、社会が疲弊して犯罪が起こり、人心が荒廃してあらゆる悪徳がはびこり、人間の寿命も短くなってしまう。この寓話的な語り口に、神話に仮託したお釈迦様一流の政治批判を読み取ることも可能でしょう。最近のロンドン大暴動の背景として指摘されるヨーロッパ社会の格差拡大、日本でも進む貧困層の増大など、政治が適切な「富の再配分」を怠った結果として社会の根幹が蝕(むしば)まれているわけで、決して古代インドの絵空事としては受け取れないと思います。政治家を志す方は、『転輪聖王獅子吼経』を読んだほうがいいでしょう。
お互いを「獲物」と見て殺し合う人類
で、経典の記述によれば、人類の凋落はさらにエスカレートし、ついに人間の寿命は十歳にまで縮まるとされています。少し長くなりますが、人間の寿命が十歳の世界の描写が強烈なので、経典から引用しましょう。
クソまずい稗(ひえ)の飯が最高のご馳走になるぞ、と続きます。
性的なタブーがなくなり、人々は近親相姦を恐れることもなく禽獣のように交わるようになるといいます。まさに世も末です。そしてついに、人類がほぼ滅亡に追い込まれるような、現代人のイメージするハルマゲドン的な大惨事が引き起こされるのです。
「救世主」は困ったときにやってこない
このような凄惨な殺し合いが七日間続くといいます。まさにハルマゲドン、人類滅亡の危機。スーパーヒーローの出番です。しかし、えーっ……この期(ご)に及んで、我らが救世主、弥勒さまは、まだ現れないんでしょうか?
はい、ぜんぜん現れません。
人類が自業自得で堕落して、寿命が十歳にまで減って、禽獣のような醜態をさらし、お互いを「獲物」と見て殺し合う事態を、弥勒菩薩は兜率天で安楽に過ごしながらやり過ごしています。正気を失って殺し合うようになった人間に、何を言っても聞くわけがない。弥勒も人間の母胎を借りて下生するわけですから、「刀の中劫」の頃に入胎したって母親ごとぶち殺されて終わりです。黙って放っておくしかないのです。続き。
「不殺生」は人類共存のための道徳
次に、いかにも仏教的な寓話だなと思う面白いポイントが出てきます。七日間の大虐殺、「刀の中劫」を隠れてやり過ごした人々は、ゆっくりと社会の再建を始めます。そこで最初に人類が協議して決める最初の道徳は、「殺すなかれ」という不殺生の戒めなのです。
不殺生という戒めは、決して「神」から命令されて守るものではありません。人類が共存して生きていくために必要な、皆が納得して守るべき基本的な道徳なのです。わざわざブッダから言われるようなことですら、ないのです。道徳の起源について、『転輪聖王獅子吼経』はさりげなくも重要なことを示唆していると思います。
道徳の回復と社会の安定
では、そのくだりを読んでみましょう。
このようにして、人類は道徳的な生き方を徐々に回復することによって、徐々に寿命が延び、社会も安定していきました。そして、人類の寿命は再び八万歳まで延びました。しかし、八万歳まで寿命が延びた人類にも、三つの病、すなわち欲求(渇愛)、断食(空腹感)、老い(老化)という病は相変わらずあるのです。
ついに弥勒が登場
このタイミングなのですね、弥勒(マイトレーヤ)が兜率天からこの世界に降誕し、無上正覚に達するのは。
つまり、人類の寿命が八万歳まで延びた絶頂期、渇愛・空腹感・老いという微(かす)かな陰りだけが自覚されているところで(身体を持つ生命である限り、それらは決して避けられない「病」です。ただ寿命が延び続ける局面ではそれは自覚されにくい)、ブッダが説く「無常・苦・無我」の真理が人々に理解される可能性も表れるのでしょう。
ただし註釈書によれば、諸々のブッダは人間の寿命が増大する時代には現れず、衰退するとき、つまり寿命が短くなる時代にだけ現れると決まっているそうです。ですから、弥勒も人間の寿命の絶頂期に下生したわけではなく、いったん阿(あ)僧(そう)祇年(ぎねん)(数えきれない年数)まで寿命が延びて、八万歳まで下がった時点で現れたとされています。これもちょっと理に落ちた説明のような気がします。当時の人々に分かるような説明のフレームで語られた寓話だと考えれば、それほど悩む必要もないでしょう。
ブッダが現れるための社会的条件
ここまで、『転輪聖王獅子吼経』の主要部分を駆け足で読んでみました。経典によると、弥勒(マイトレーヤ)は、人類が滅亡の危機を乗り越え、長い年月をかけて寿命を極限まで延ばすほどに安定した社会を構築した後、ようやく現れるのです。
釈尊滅後の五十六億七千万年後に現れる救世主、という常套句からはちょっと推し量れませんが、弥勒(メッテッヤ)であれ釈尊であれ、ブッダが出現するには、それなりの社会的条件が不可欠なことが、この経典から読み取れると思います(前述のように、釈尊が降誕した当時のインドも、都市国家が高度に発達して進取の気質が尊ばれる活気あふれる社会でした)。その条件とは、終末的、ハルマゲドン的状況からは程遠いものなのです。
現代社会に生きる私たちは、教育やメディアを通してキリスト教的な「終末論」や「救世主」のイメージを精神に焼き付けられています。弥勒菩薩の伝説に関しても、ついつい、キリスト教のメシアに合わせて考えてしまいがちです。しかし、お釈迦様に由来する初期仏教経典を読むと、弥勒にはそのような「救世主」的なキャラ付けはないことが明確に分かります。弥勒は、文字通り「次のブッダ」です。宇宙が幾度となく生成と破壊を繰り返す気が遠くなる時間軸で、ポツリ、ポツリと現れるべきときに現れるブッダの一人という位置付けなのです。
お釈迦様は弥勒(マイトレーヤ)について、「私(釈尊)が現れているように世界に現れ、私が説いているように真理を説き、私が見守っているように比丘サンガを見守る」と強調なさっています。弥勒(マイトレーヤ)とは、宇宙の生滅変化のなかでも連綿と未来にも受け継がれるであろう、「ブッダというシステム」を象徴する名前なのでしょう。
仏教コスモロジーのひな型
『転輪聖王獅子吼経』には「刀の中劫」という人類(ほぼ)滅亡に至る壮絶なイベントが描かれています。しかし同経の次に収められた長部27『世起経 Aggaññasutta』には、はるかに巨大なスケールで、我々が生活する宇宙そのものが破壊され、また新しく生成される過程が描かれています。
この『世起経』と今回読んだ『転輪聖王獅子吼経』は、インド仏教のコスモロジーを規定するひな型テキストと言える経典です。両経典に描かれたモチーフは、初期仏教のさまざまな部派で発達・増広されました。九州大学の岡野潔先生はインド初期仏教の一つ、正量部で伝承された世界起源神話、『大いなる帰滅の物語 Mahāsaṃvartanīkathā』について詳細な研究を発表されています。書籍にはまとまっていませんが、九州大学学術情報リポジトリ(※現在は九大コレクションに統合)で検索すると、岡野潔先生の数多くの論文を読むことができます。
テーラワーダ仏教からは離れるものの、中世に滅亡の危機を迎えたインドの仏教者、とりわけ初期仏教の系譜に連なる人々が、どんなコスモロジー・時空意識を持って生きたかをたどることができる貴重な日本語資料です。ぜひ多くの方に読んでいただきたいと思います。
※『転輪聖王獅子吼経』の訳文はすべて片山一良『パーリ仏典 長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇1』大蔵出版、二〇〇五年より。
初出:サンガジャパン Vol.7(2011Autumn),加筆修正のうえ単行本『日本再仏教化宣言!』に収録
関連動画(初期仏教のコスモロジーに言及した経典を解説)
①釈迦牟尼仏陀の「法治主義」――帝国の時代を見据えた政治思想 『転輪王経』と関連経典を読む(第5回 新潟ダンマサークル 初期仏教勉強会)|パーリ三蔵読破への道
②世起経と初期仏教のコスモロジー経典を読む|パーリ三蔵読破への道
③寿命6万年時代の「無常迅速」――増支部7集「アラカ経」を読む|パーリ三蔵読破への道
~生きとし生けるものが幸せでありますように~