ブッダの教えは「思想」ではない 仏教と現代科学、あるいは仏典の不思議について
仏説とはブッダがただあれこれ考えた創作物ではなく、覚者が観たありのままの事実を当時の言語で説明した教えである。業論にせよ輪廻の説明にせよ、「ウパニシャッドのこの教えにこのパッチを当ててアップデートしたら新しい宗教が完成したわ!」みたく思案して概念をこねくり回した代物ではない。等閑視されがちな前提。
仏教を思想(思想というと土人の戯言とされるグローバルスタンダードに配慮すれば「哲学」)とみなす言説は、ブッダを「あれこれユニークなことを考えてた古代インドの人」とする前提に拠っている。これって近代人濃度が高い人ほどすんなり受容してしまうのだが、実は非常に特殊で偏頗な見方でもある。
こないだ、現代物理学(量子力学)について解説された記事を読んだ。
……仏教徒なので知ってた。
科学が前提とするこの陥穽も、仏教徒にとっては自明の理。ただ本当に無我を腹落ちするには修学がいるんだけど。
もちろん量子力学=仏教であるはずはない(ブッダの智慧はもっと遥かに広大無辺で甚深微妙であると仏教徒は信じる)けれど、量子力学的なものの見方が普及することは現代人に仏教をプレゼンテーションするうえで好材料だとは言えるだろう。
信心決定してない仏教「業界人」は科学や哲学にすり寄って自我を安定させようとしたり、時々の知識人生態系の中で地位を得ようと汲々とするものだが、ガチの仏教徒にとって俗世間の知見は出世間の真理を伝えるために用いる方便的な媒体にすぎない。自然言語で精密に説かれた仏教には、それを可能にする通時代的な柔軟性が備わってもいる。
ところで、仏典に出てくる神通の描写をもって「神話」「神秘的」などと呼ばわる言説には違和感がある。仏道修行によって六神通を習得し得ることはニカーヤ中で釈尊により繰り返し言明されている事実であり、原始的心性の産みだした「神話」ではない。禅定も神通も現代人の知識水準を超えたブッダの心理学である。
ゆえに「神秘的」という形容も相応しくない。要するに、ブッダの事績は福音書に見られるイエスの奇跡とは性格がまったく異なる。聖書研究を仏典解釈に援用しても誤解しか生まれないだろう。現代人が輪廻等を信じられぬのも、超人たるブッダに比べて知性と知識が矮小卑俗視野狭窄であるからに過ぎない。(もちろん注釈書に描かれる仏伝文学で、神通がストーリー展開のスパイスとして用いられる場合もある。)
仏教モダニズムという語には、近代主義という支配イデオロギーに前近代的なオワコン仏教が阿って自己改変や思想修正を行うようなニュアンスが付き纏う。実際には時代を超越した普遍的真理である仏説を末人(すえびと)たる現代人にも分かるようにプレゼンテーションしているに過ぎない。脳科学も量子力学も、方便として使えれば使うし、陳腐化すれば捨てる。現代のテーラワーダ比丘たちにとっても、その程度の「不遜さ」はごく自然なものではないかと思う。
(Twitterのつぶやきをもとにまとめました。)
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