【日本大学・エピソード集1】 校舎用地は前総長の私有地?


この方の対極にある方、思い浮かんだ方、正解です。
本記事は、「日本大学百年史」(第2巻)、「シリーズ学祖・山田顕義研究」に記載の記事がベースとなっています。
「日本大学百年史」(第2巻)については、2018年頃に拝読済です。

これは割合、いろんなところに書かれているのを見かけます。
これについては、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。
また、長文になるかもしれないことをあらかじめ、申し上げておきます。
これを語る前に触れておかねばならないことがありません。
これが伏線になったとは思いますが、そうでなくても、ありえた話ではないかな、と思うものです。
それは関東大震災によって、初代総長である松岡康毅が遭難したということ。
遭難死した教員のほか、居宅が火災により類焼した教員もおりました。
また、大学校舎とて例外ではなく全施設が類焼してしまいました。
教員、学生が一丸となって、大学復興に力を注いだのはいうまでもありません。
特筆すべきは、初代総長の松岡康毅が葉山の別邸で倒壊家屋の下敷きとなり、圧死したこと。
松岡は日本法律学校設立当初から、評議員に名を連ね、かつまた学祖である、司法大臣山田顕義のもとで裁判官や司法行政官として手腕を発揮していた人物。
なにより、明治26年に廃校問題が起きたときには、存続のために尽力した人物でもあります。
その松岡の思いが結実したのは、皮肉にも松岡亡きあとの昭和3年5月の予科校舎の独立がなされた時になります。
私も学んだ日本大学経済学部1号館の用地がそれです。
神田三崎町1丁目2番地に、前総長の松岡康毅邸宅がありました。
所有する土地の広さは、569坪(約1,878㎡)。
日本大学はその土地を、購入し、予科校舎にあてました。
その土地の広さは、近くにある神田女学園までおよんだといわれています。
その校舎は世田谷に新校舎(現在の文理学部)ができるまで、予科校舎として使用され、予科の世田谷校舎への移転に友奈々って商経学部の校舎となりました。
こうした話は、留学から戻って、研究所などを提供した北里柴三郎に対する福澤諭吉くらいしか、思い浮かびません。
他にも、「私の母校にもそういう話はありました。」ということをご存知の方あれば、この記事を固めていくためにも、お知らせいただければ幸いです。
震災で罹災しながらも、山岡学長の学生大会での、一体となって復興に努めていこうという思いを、教員・学生が一体となって実行に移していきました。
なかでも、日本大学学生救護班、歯科救護班などの活躍など、学生も積極的に動いたことも、記憶にとどめなければなりません。
また、昨日、取り上げた通称山岡研究室所蔵の蔵書も消失していたことを申し添えておきます。
そんな中でも、あれだけの数字をたたき出しているという、日本大学学生の思いも忘れてはならないと思います。
こうした史実を、上に立たれる方々は、歴史「に」学ばねばならないと感じます。
まとめの代わりに、当時の平沼騏一郎総長が松岡康毅・前総長の追悼のために寄せた一文から拾っておきたいと思います。
本来、学校の経営や教育面に携わる者はこうでなくてはいけないのではないか、と思わせる言葉です。
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「我を捨て彼に従ふ非ず、彼を取って我用を為さしむることあるも、我大本を動揺せしむることあるべからず。」
<「日本大学百年史」(第2巻)P275>
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#復活のN
《参考文献》
「日本大学百年史」
「学祖・山田顕義研究」
など


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