盛田浩司

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日大・駅伝備忘録(5)山本佑樹さん<第74回及び第75回箱根駅伝ダイジェスト映像から>

最近の山本佑樹さんというと、明治大学の長距離部門を指導されている姿がメイン。 日本大学在学中は、1年時の箱根駅伝予選会で日本人トップながら、チームは撃沈。 走路員を務められた。 その翌年、晴れて箱根2区を4位で駆け抜けた。 その好対照の姿が映像に映っている。 今回も走路員を務めた学生がいます。 次は走って欲しいと願うばかり。 山本佑樹さんが映っているのは、21秒付近。〔区間4位〕 <第74回のダイジェスト> その翌年、故障を抱えながらも2区を走行。 この映像にも21秒付近

    • 日大・駅伝備忘録(4)2022年度新入生情報

      今日、本屋さんへ立ち寄ってきました。 月刊陸上競技マガジン2月号を購入するため(Facebookの某Gのメンバーの方で購入する方は、ほとんどいらっしゃらないと思いますが)。 何故?各校の新入生情報が載っているからです。 同書の情報メインで、そのほかで把握している選手をリストしておきます。 こういう時期に、送り出してくれた高校の監督(例えば、京都外大西の中井翔太氏<東海大OBで武者さんとの繋がりとからと思料>)、そして選んでくれた選手がいます。 有り難いことです。 タイムは5

      • 「箱根4年連続制覇」<『日本大学百年史』(第2巻)>

        本記事は、Twitterに固定してある3つのブログ記事を読みやすく?、連結し、皆さまにお届けしたく思います。 そのため、長文になることを、ご容赦いただければと思います。 ベースは「日本大学百年史」(第2巻)、参考文献として「写真で見る 箱根駅伝 80年」(月刊陸上競技・編集/2000年2月刊行)を用いました。 記事内容は、執筆時のままで共有させていただきます。 本書を編まれたのは日本大学百年史編纂委員会。 私自身、学生時代、教職課程や三島での教養課程時代に教鞭をとっていら

        • 『日本大学学徒兵調査報告書』(日本大学企画広報部広報課)

          陸上競技部の選手(特に箱根駅伝を走られた方)を中心として。 本書(本文83頁)は、平成30年12月発行(非売品)。 令和元年6月に富山県立図書館に大学から寄贈されたもの。 『日本大学百年史』第二巻において、少しは記されておりましたが、それから20年経過していることをきっかけに、一冊の記録集として発行されました。 本書の発行に当たっては、小松修先生、高橋秀典先生のお力によるところが大きいかと思料します。 ここでは、陸上競技部出身者をメインに少しく記しておきたいと思います。

        • 日大・駅伝備忘録(5)山本佑樹さん<第74回及び第75回箱根駅伝ダイジェスト映像から>

        • 日大・駅伝備忘録(4)2022年度新入生情報

        • 「箱根4年連続制覇」<『日本大学百年史』(第2巻)>

        • 『日本大学学徒兵調査報告書』(日本大学企画広報部広報課)

          「独学者の慈父・澤野民治」そして三島(教養課程)時代の思い出〜

          いま、書き進めている時代とオーバーラップする記事を一つ挟ませていただきます。 「日本大学のあゆみ・第3巻」(日本大学広報部大学史編纂課)を読んでいて、独学者へ法曹への道を拓いた澤野民治氏(日本大学高等師範部卒業)についての記述を見つけました。 彼は日本大学法制学会を設立し、地方にあって、向学心を持ちながらも、経済的に恵まれない青少年を支援するため、通信教育によって勉学の機会を与え、国家試験を志す学生をバックアップした人物。 当時の普通文官試験、高等文官試験そして難関であった

          「独学者の慈父・澤野民治」そして三島(教養課程)時代の思い出〜

          「水の覇者」(日本大学水泳部)

          <水泳部の沿革> 大正14年に学生集会の準公認団体として発足。 当初の練習場所は、雑司が谷の本学専属プール。 大正15年に公認団体となり、柴又に25mプールと合宿所を確保。 因みに、水泳部の創部は昭和2年となります。 〇昭和2年9月、芝プールで開催の慈恵医大・拓大との三大学対抗競泳大会で優勝。 〇昭和3年7月、法大・拓大・東京商大・明治薬専等12校連合水上競技大会において圧勝。 昭和6年には、碑文谷に50mプールを開設。 昭和7年のロスアンゼルス・オリンピックには、遊佐

          「水の覇者」(日本大学水泳部)

          「日本大学のスポーツ活動発足」

          日本法律学校は、明治36年、名称を「日本大学」に変更、明治37年(1904)、専門学校令による「日本大学」に昇格、その後大正9年(1920)の大学令による大学になるまで、主として学内にあってスポーツ活動が行われていました。 野球部は明治38年(1905)に誕生。 端艇部は明治39年(1906)、進水式を行い、活動を本格化。 同年秋、「日本大学第一回水上運動会」が隅田川で行われ、毎年、行事が継続されていきます。 大正初期には、山岳部のはしりともいえる、日本大学富士登頂隊が組織

          「日本大学のスポーツ活動発足」

          「日本大学」の校名について

          日本法律学校を「日本大学」と改称するにあたって、文部当局が難色を示したことをご存知でしょうか? もしかしたら、「日本大学」と呼称することがなかったかもしれないということです。 そのことを、当時の講師中村進午が語っているところを抜き書きしておきたいと思います。 (参考文献:「日本大学百年史」第一巻、P497・498) ーーーーーーーーーーーー 中村進午 回顧談(法学博士・東京高等商業学校・日本大学常務理事) 日本法律学校を日本大学と改称するについては、文部省において相当に難色

          「日本大学」の校名について

          日大駅伝・備忘録(3)79回箱根駅伝4区 区間2位・藤井周一

          2003年の総合3位は、4区の区間2位での藤井周一さんの力走なくしては語れません。 この大会で6区を走ったのが、武者由幸・現コーチでした。 #復活のN #ニチダイシンジダイ

          日大駅伝・備忘録(3)79回箱根駅伝4区 区間2位・藤井周一

          「司法の日本大学」と言われる由縁。

          『日本大学百年史』等に載っている史実の整理を兼ねてご紹介します。 Facebookでもありました。 また5chあたりでは、日常茶飯事のようです。 そんな方々に問いたい。 この数字を見て、何と思われますか? そしてどうこの数字を説明されますか? 最近の日本大学の状況しかご存じないかと思います。 戦後の日本大学の数字からは想像できないと思いますが、読んでみていただけたら、と思います。 言いたいことがあるなら、言ってみろい!って。 母校でも教鞭をとられたこともある、秦郁彦氏の

          「司法の日本大学」と言われる由縁。

          日大駅伝・備忘録(2)83回箱根駅伝  6区 区間賞・末吉 翔

          皆さん、覚えていらっしゃいますかね? 2007年1月3日、日本大学のスタートは区間賞から始まりました。 この年度の3大駅伝(出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝)は、日本大学は全て2位という結果でした。 #復活のN #ニチダイシンジダイ

          日大駅伝・備忘録(2)83回箱根駅伝  6区 区間賞・末吉 翔

          『初代校長 金子堅太郎著作集<第三集>』(日本大学精神文化研究所)

          この手の本をブログにあげる方を、ほとんど見たことがありません。 そんな類の一冊。 「余が常に青年に告ぐる處世訓」 本書は、2017・2・22に読了した一冊(全406頁)。 金子堅太郎が、日本大学と何の関係があるの、という方が大半だと思います。あるいは、ボアソナードと対にして歴史に登場人物として暗記されているのが関の山でしょう。 少なくとも、日本大学関係者(校友含む)は、関係あることを知っておいていただきたいと思います。 タイトルにもありますように、日本大学の前身である日本

          『初代校長 金子堅太郎著作集<第三集>』(日本大学精神文化研究所)

          『山田顯義傳』(日本大学)

          「創立者の人格や識見」 本書は、2015・7・27読了の一冊。 この言葉は『山田顯義傳』(日本大学)が完成した当時に、大学の総長であった永田菊四郎氏の『序文』にあった言葉。 本書は非売品で市販はされておらず、各図書館に大学側から寄贈されています。 発行は昭和38年7月。 昭和34年10月、日本大学は創立70周年の式典を行うに際し、本書など、日本大学にゆかりのある首脳陣の伝記編纂を決議。 本書は、その流れの中で編まれたもの。 総頁1009頁。 巻頭には、明治21年10月の

          『山田顯義傳』(日本大学)

          『剣と法典−小ナポレオン 山田顕義−』(古川薫)

          「われ東洋のナポレオンたらん」(山田顕義)。 本書は、2015・3・16読了のもの。 『シリーズ学祖・山田顕義研究』があったりしますが、小説となるとなかなか私の思いをみたしてくれるものは、ほとんどない状態。 サーベルをペンに持ちかえ、法典の完成に力を注いだ山田顕義。 そして、母校や國學院大學の2つの大学の学祖であることは、知る人ぞ知る、というレベル。 当時、民法は山田顕義が力を注いだ「明治23年民法」を典拠として編纂され、その形をとどめるとともに、戦後の新民法にも生き続け

          『剣と法典−小ナポレオン 山田顕義−』(古川薫)

          『シリーズ 学祖・山田顕義研究(第7集<追補>)』(日本大学広報部)

          「後世に遺すべき、そして引き続き研究しなければいけないテーマ」。 読了したのは『シリーズ 学祖・山田顕義研究』(日本大学広報部)<2015・7・4読了>。 先月から、順を追って、拝読させていただきました。 抄録の存在はフレンドさんのお話によるとあったようですが、まさか読み通してこれだけのボリュームがあるとは思いませんでした。 メガネは必須アイテムの私には、上下二段組みは堪えました。 かといって、拡大鏡を用いるわけにはいきません。 本記事は過去に記事にしたものを加筆・修正してい

          『シリーズ 学祖・山田顕義研究(第7集<追補>)』(日本大学広報部)

          【日本大学・エピソード集1】 校舎用地は前総長の私有地?

          この方の対極にある方、思い浮かんだ方、正解です。 本記事は、「日本大学百年史」(第2巻)、「シリーズ学祖・山田顕義研究」に記載の記事がベースとなっています。 「日本大学百年史」(第2巻)については、2018年頃に拝読済です。 これは割合、いろんなところに書かれているのを見かけます。 これについては、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。 また、長文になるかもしれないことをあらかじめ、申し上げておきます。 これを語る前に触れておかねばならないことがありません。 これが伏線に

          【日本大学・エピソード集1】 校舎用地は前総長の私有地?