産休や育児休業にまつわる呪いのことば
子どもを授かるって、いうまでもなく、素敵なことだ。
その子どもをお腹のなかからこの世に送り出すために、送り出したばかりのふやふやで簡単に生きることを止めてしまいそうなちいさないのちが確からしいものになるよう育むために、そして、そのさきも一緒に生きていく「家族」の絆を補強していくために、産休や育児休業を取得できるのも、とってもありがたいことだ。
けれど、社会的動物であって、高度に発達した欲望ピラミッドのなかで生きているわたしたちにとって、いのちを産み育てる過程でしんどいことって結構ある。それも、わたしたちを生かしてくれるはずの社会的な仕組みのなかに、その種子がねむっている。
今日は、すでに語りつくされていることかもしれないけれど、産休や育児休業のあいだの、素敵でありがたい経験以外のことを書きたいと思う。
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わたしは約6年前に長男を、約2年前に次男を産んだ。
長男を妊娠したとき、妊娠が判明して比較的すぐに上司に報告したら、彼はめちゃくちゃ不機嫌そうな表情になって、そのあとしばらく目をあわせてくれなかった。
ちょうどその時期は会社の昇進プロセスが走っていて、彼はわたしを推薦してくれていた。わたしの昇進はほぼ確定していた。それなのにわたしが妊娠してしまったから、彼は目をあわせずに、
「ユニット長(彼の更にうえの役職者)には自分で報告してほしい。」
と言った。
「ユニット長はおちぼさんに妊娠予定がないか気にしていたけど、僕は推薦した。なのに妊娠だなんて。女性を推薦した僕が怒られるの嫌だからさ。自分で報告してよ。あと、責任のあるプロジェクトはすぐ他の人に引き継いでおいてよ。」
とのことだった。
わたしたちが働いていたのは、日本で比較的おおきなコンサルファームで、形式的には一応外資系で、女性管理職は圧倒的にすくなく、子どもがいる女性管理職には出会ったことがなかった。当時はまだまだハードワークが当たり前で、繁忙期には午前2時ごろまで仕事をして会社のそばのビジネスホテルに泊まって午前6時に出社したり、そのまま会社で徹夜をしたりした。
わたしは、彼の言い分が不当だと思った。
そういう働き方を継続できる人間を管理職にあげたいというのはわかる。その前提で昇進可否を判断したのに半年後に産休というのが困るというのもわかる。特に今経営層にいる人材のほとんどが、家族との時間をかなぐり捨ててがむしゃらに仕事にまい進してきた人たちばかりなのだから余計、人情としてそう思ってしまうのはわかる。
けれど、そういう前提で組織開発をしているのであれば、全社員に対して、社会に対して、そうアナウンスすべきだ。そして、結婚願望や子育て願望がある人材や家族の介護をする可能性がある人材は採用しなければいい。そのうえでもしも管理職が子育てや介護を始めたら、それを理由に降格させればいい。
でも、彼らにはそれができない。建前上、できない。できないけれど、こころの底からは納得できていなくて、単に腹立たしいから、そのコミュニケーションプロセスのなかでいちばん立場が弱いわたしに文句を言う。
それが許せなくて、わたしはしっかりキレた。結構文句をいい、それ以来彼はそういったことを言わなくなった(すくなくとも、わたしの前では)。
その後、わたしはなぜか、「妊娠しても、出産しても、今まで通り働けることを証明してやる。」と思ってしまい、それまで通り徹夜をして、早朝深夜まで働いて、出産予定日の1カ月前になってようやく産休を取った。
休業期間中は、キャリアアップにいそしんだ。
毎日子どもが寝ている間に資格の勉強をして、関連する法律や制度を暗記した。学生時代に取得した海外の資格の更新をするために、英語の参考書を買ってきて読み込み、過去問を解きまくって、試験センターに行った。英語力も伸ばそうと思って、英単語やフレーズを覚えた。復帰したら、スタートダッシュをキメてやろうと思っていた。
馬鹿にすんなよ。全部を手に入れて、ぎゃふんと言わせてやるからな!
なにをもって「ぎゃふん」で、なにに打ち勝ちたかったのかはいまも当時も不明だが、とにかくわたしはそう思ってしまった。
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目的を見失ってしまったわたしだったけれど、仕事に復帰してからしばらくたって新型コロナのいろいろなことがあって、家族で過ごす時間が増えた。わたしたちはすこしずつ、つまづいたり助け合ったりしながら、「家族」になった。
そして、たった4年の間に、社会におけるライフワークバランスや多様性に対する価値観もおおきく変わった。
会社では、「〇〇君、親御さんが倒れて、介護しないといけなくなったんだって。せっかく仕事頑張ってたのに、昇進は無理だね。」とか、「女性はだいたい妊娠すると仕事セーブしちゃうからね。今〇〇さん頑張ってるけど、結婚しちゃったから、ちょっとリスキーだよね。」とか、そういう時代錯誤なことを言う人たちはなりを潜めた。
そして、なんとも滑稽なことに、わたしの「子どもがいる適齢期の女性」という部分が「価値」になって、女性管理職の比率を〇〇%アップさせるという目標に基づき、わたしはさらに昇進した。
長男妊娠のときに失言した上司はまた失言して、
「僕はさ、おちぼさんはまだまだだと思うんだけど、まわりのさらに偉い人たちが絶対にあげようっていうからね。昇進会議に出ていた人たちは、男性はだいたい賛成してたよ。あ、でもひとりね、女性で反対している人がいたな。子どもが小さいのに無理だろうって。女性の敵は女性なんだね。」
と言っていた。
わたしはもうげんなりして、キレる元気はなかった。代わりに、「あ、もう辞めたい。」と思った。
それからすぐ、次男を妊娠した。わたしは、心底ほっとした。
追い立てられるように、日々の時間のほとんどすべてを、隙間時間さえも、仕事に捧げる生活がやっとストップする。これでゆっくり考えられる。わたしがいったい何者で、どういう人生を送りたいのか。
もう誰を見返すとか、ぎゃふんと言わせるとか、どう評価されるかとか、そんなことはどうだっていい。「わたし」はどうしたいんだろう?
それは2021年のことで、ちまたでは、
育休中ママは「学びのチャンス」が広がる!
スキルアップでキャリアアップ!
男性の育児休業も、キャリアアップのための準備期間としてメリットあり!
育休中にプロボノやインターンでキャリアアップ!
などという情報が増え始めていた。
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出産・育児の場合、スムーズに妊娠して出産して回復して、二人三脚してくれるパートナーと、病気になり辛い発達速度はやめの聞き分けのいい子どもを育てながら、ちょうどいい塩梅のキャリアアップの職場で働き続けるケースもあれば、そもそもなかなか子どもを授からなかったり、妊娠中に体調を崩したり、出産前後子どもや自分の体調がすぐれなかったり、夫婦関係がすぐれなかったり、職場が機能不全を起こしていたりして、思い描いた通りには暮らせないケースもある。
なにが自分にとって幸運かは、わからない。それは、「今」の積み重ねをどの時点で切り取って、どんな価値観で判断するのか次第だからだ。
いずれにせよ、おおきな喜びといっしょに自分のちからではどうすることもできない未来を受け入れるということ、基本的に途中棄権はできないし弱音だってなかなかはけない(だって自分でその冒険に出ることを選んだんだから)ということ、それは、往々にしてしんどいことだ。
しんどいから、「もう今まで通りにはできないんだよね!?」「今やらないでいつやるの!?」「せっかくの機会を活かさないなんて無駄なことしちゃだめだよ!?」「みんなやってるんだよ!?」「恵まれてるんだから感謝してよ!?」などなどという呪いの言葉が、四六時中、目に、耳に入ると、
「そ、そうなのかも・・・?」
と思ってしまう。自分の内発的な動機とは別の、不安を「煽られる」という感覚として。そして、前のめりに成長しつづけようと思わされる。すくなくとも、わたしはそうだった。
もちろん、本当に「この機会になかなかできなかったこの勉強をしよう!」とか、「時間がなくて踏み出せなかったこういう活動をしよう!」とか、「これからももっともっと頑張ろう!」という、こころからの動機がある人たちだっている。
とにもかくにも日常に変化があることで救われることだってある。
ひがないちにち、こちらがつるっと手を滑らせたら簡単に鼓動を止めてしまいそうなふやふやな未知の生命体や、すこし育ってちょっと意思疎通はできるけどコントロールはできない未知の生命体なんかと向き合って、わかり合えるはずの身近なおとなたちとわかり合えなかったら、社会とのつながりや、とにかく「前進しているのだ」という感覚がほしくなる。
でも、それは、スキルアップとかキャリアアップとか自己ブランディングとか自己研鑽とかそういう経済合理性に基づく一時的な居場所づくりのためではない。
ほんとうに、ただ「自分らしく生きていく」ために必要なことなのだ。
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わたしは、前のめりに成長しつづけなければいけない社会なんて嫌だ。
挑戦したい気持ちは、気持ちよく応援してほしい。
前進していると実感できなければつらすぎる環境や救われたいつらさは、自分にあったやりかたを見つけて解消したい。
だから、ただ「自分らしく生きていきたい」わたしたちの不安につけこむ呪いのことばで、わたしたちを煽るのはやめてください。
ほうっておいてください。
それが、わたしの、社会に対するお願い。