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ちょい読み 2024/12/26
『ポストフォーディズムの資本主義
ー 社会科学と「ヒューマンネイチャー」ー 』
パオロ・ヴィルノ 著 ・ 柱本元彦 訳 (人文書院 2008)
これは再読なんですが、初読の時、頭の中でまとまらないので、
アップしなかったもの。再読途中でも変わりなし。
フォーディズムは、車のフォード車の生産方式。
人が分業して車をつくる。人が機械にあわせる。
これは正剛さんの言葉を借りよう。
ヴィルノが本書で結論にしているのは、
われわれにつきまとう「ネオテニー」(1072夜)に象徴されるような
生物学的性質は、これまでは家庭や学校や企業といった社会の組織がときに和らげ、ときには矯正してきたものでもあろうけれど、
いまや、このようなわれわれにひそむ生物学的歴史性と、
われわれが直面しつつある「ポストフォーディズムの資本主義」として
如実となってきた社会学的現実性とは、実はおそろしいほど近接し、
重合してしまっているのではないかということだ。
これでは分からんな。分かったつもりにはなる。
<ネオテニー> 幼形状態を保ち続けたままの成熟
二足歩行になって、人は未熟なまま産まれてくることに。
フロイト派の岸田秀さんは、
人は本能の壊れた生き物だと言っていたけれど、
現状は、「人は本能の弱い生き物」という言い方になっている。
動物としての人間はそもそもの能力や機能が
「過剰」に出来てきたのではなく、
むしろ「過少」に出来てきたということなのである。
「少ない動物」だったのだ。それがネオテニーに代表される
「あえて成長を遅らせて出産されていく」ということ
ネオテニーの話だけでも面白いでしょう。
ネオテニーは発育過程が「遅滞」あるいは「遅延」することによって、
胎児や幼児の特徴がそのまま保持される風変わりな生物学的な現象をいう。あきらかに生物的な戦略だ。