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私が「宗教学」に惹かれる理由

 私は高校時代から宗教学に関心がある。大学でもその興味関心は尽きず、卒論では文化人類学と宗教に関するテーマで執筆した。
 noteでも度々自分の思想について論じることはあったが、宗教学については述べたことが無い。そんな中、chatGPTに「次に(note)に書くテーマを考えて欲しい」と助言を求めると、以下のようなテーマを提案してくれた。

1. 「私が宗教に惹かれる理由」
 これはとてもパーソナルでありながら、共感を呼びやすいテーマです。なぜ自分が宗教というテーマに関心を持つようになったのか、どのようなきっかけがあったのかを書いてみましょう。例えば、幼少期の体験やある特定の本・映画、または歴史上の出来事が興味を引いたのかもしれません。それがどのように自分の価値観や考え方に影響を与えたのかを深掘りすると、より一層興味深い内容になります。

chatGPT より

「宗教学に惹かれる理由」
 そういえば、これについては周りに発信する機会がなかった。灯台下暗しとはまさにこのことで、今回は「私が宗教学に惹かれる理由」について書いてみたいと思う。興味関心を原点回帰することで、新たな興味に発展するかもしれない。

 今回は①興味を持ち始めた契機、世界宗教にヒントを求めようとした②キリスト教を通した課題の明確化、そして本題の③宗教に惹かれる理由について話したい。 

※かなり思想が強く偏った内容になるので、どのような思想でも受け入れられる心優しき人間のみ読んでいただきたい。

1.興味を持ち始めた契機

 宗教学に関心を持つ私だが、もとから興味を向けていたわけではなかった。むしろ「宗教」と聞いて初めに抱いた感情としては、恐怖だった。
 そもそも宗教に理解のない両親のもと、私は生まれ育った。(これは両親が「地下鉄サリン事件」の世代だったという背景もある。)
 しかし、全く宗教に関心が無いわけではない。お盆とお葬式などについては他の家よりも丁重に行うし、外出前に爪を切ったら何か口にいれてから外出する、お金を封筒でいただいた時は大安の日に開ける…など、変なところは気を付ける家だった。これを宗教的と言って良いのか不明だが、他の家でもこういったことは多いのではないだろうか。

 そのような生活のなか、高校で世界史を学ぶにあたり「キリスト教」が大きな存在として触れるようになった。無論、イスラーム教やユダヤ教、ヒンドゥー教なども。特に世界史では「宗教改革」や「宗教戦争」など、宗教を中心とした時代を扱う機会が多い。
 当初は宗教に対して特に何も感じなかったのだが、ふと世界史を学ぶなかである疑問が生まれた。 

「地域は違えど、なぜ人間は超越かつ全能な存在を見出すのか。そして信仰するのか。」

 この疑問が私が宗教学に対する興味の出発点であった。
 なぜ地域が違えど、人間は「神」の存在を見出し、畏れ、信仰するのか。特に人間という存在が生まれた古代の時代において。または自然の中で見出される神について。各地域様々な形態であれど、不可視な存在を崇める人間の行動は共通して出没している。これは当時高校生の私にとって、不思議でならないことであった。
 世界史にあった関心は徐々に宗教に向いていき、大学でも紆余曲折はあったものの、最終的には宗教史学に落ち着く結果となった。

2.キリスト教を通した疑問の明確化

 ミッション系大学に進学したことで、必修でキリスト教に関する授業を受ける機会に恵まれた。
 世界宗教であるキリスト教に触れれば、私の疑問も解決するはずだと期待していたが、実際はそうでは無かった。
 そう考えた理由としては以下の点が挙げられる。

・キリスト教はイエス・キリストの復活と、彼を救世主と信じる宗教である
→私が知りたい「自然の中で見出される神」(自然発生的な神)とは性質が異なる
・「畏れる神」ではなく「愛の神」としての性質の方が『新約聖書』に見られる
 ※キリスト教における聖典は『旧約聖書』と『新約聖書』
→私が知りたいのは「畏れの神」としての要素が大きい。

 つまり、「小さなコミュニティで自然の中で発生される、畏れられる神」について私は知りたいのである。
 確かにキリスト教において、私の求めるものは無かったかもしれないが、キリスト教の学びを通して自身の追求したい課題が明確に自覚することができた。
 これが結果的に文化人類学の道に繋がるきっかけにもなったのだが…もう少し早くこの学問について知りたかったと、現在も悔いている。

3.宗教に惹かれる理由

 私が宗教学に惹かれる理由は、「可視化できない存在への畏れに魅力を感じる」からだ。
 神は可視化できない。もちろん例外はあるだろうが、一般的に絵画や像、超自然的な体験を通して私たちはこれを捉えようと努力する。
 しかし、私たちは人智を超えた現象について、一部「神(超自然的な存在)が行ったこと」として理解しようと試みる。古代においては天災や不吉な出来事、現代では現状の科学では証明できない事象などがこれに当たると考える。これは地域は違えど、少なからず世界に共通する部分である。
 これに対して、私は非常に魅力を感じる。文明を持ち、食物連鎖の頂点に立つ傲慢な存在でありながら、我々はその上位に位置する「存在」を認識しているのだ。高度な文明を持った人間が、不可解な事象を「神」を通して理解する。つまり、「神」というレンズを通して世界の解像度を上げようとする。恐らく、これはこの先技術が発展した未来においても、半永久的に存在し続けるのではないかと思う。

4.まとめ

 かなり思想が偏った記事になってしまったが、これが宗教学に惹かれた経緯、かつ理由である。宗教分野だけに限らずこの先も引き続き探究心や好奇心を忘れず学問や思想に傾倒していきたい。
 非常に拙い文章でありながら、ここまで精読していただいたこと感謝する。


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